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辰 壽初春大歌舞伎 昼

<白梅の芝居見物記>

 當辰歳歌舞伎賑 <五人三番叟・英獅子>

 本年は元旦、2日と世の中は、波乱の幕開けとなりました。ともすれば暗い気持ちになりかねませんが、甲辰という年は「春の日差しが、あまねく成長を助ける年」なのだそうです。一人一人が、足元を固めて、変化をおそれず、まず自分の周りだけでも輝かせて、明るい年としたいものです。

 歌舞伎座の初芝居は、フレッシュな五人の若者による三番叟で明るく幕が開きました。それぞれが個性的で、その個性を大切にしながら、同世代の五人が切磋琢磨して成長してくださるのだろうと、明るい未来を感じさせてくださいました。見ている方も元気をいただけ、暗い気持ちを吹き飛ばしてくださるエネルギッシュな舞台を拝見することが出来ました。
 二景目は、雀右衛門丈、又五郎丈、鴈治郎丈の英獅子。鳶頭のお二方の色合いの違いが、魅力でした。ただ、贅沢を言えば、フレッシュな踊りの後で、ベテランのお三人の踊りですので、せわしなく動くような印象をもってしま部分があることが気になってしまいました。ベテランらしく、もう少し余裕のある動きで悠々とされている踊りが見たかったようにも思います。

 荒川十太夫

 2022年10月の初演時から、随分肌合いが変わったように感じる舞台でした。12月の『俵星玄蕃』が影響しているのでしょうか。
 昨年は、真山青果作品のような硬派な感じが魅力でしたが、今回は、世話がかった味わいが加味されたように感じられました。新歌舞伎の時代物のような味わいではなく、一人一人の人物がわれわれと等身大の人間として描かれることに、演出家の目が向いていたからでしょうか。
 どちらがいい、とも言い切れないのですが、やはり作品全体としての味わいは演出で大きく変わってくるもののように、今回強く感じました。

 尾上松緑丈の十太夫が味わい深さが増して充実していました。第一場、泉岳寺門前での物頭役にそぐわない、実直ではあるけれど自信なさげな人物から、幕切れの颯爽と花道をいく姿へ変化するところが鮮やかで、印象深いものとなりました。市川猿弥丈の愛嬌と温かさのある和尚長恩に見送られ、十太夫のこれからの人生に思いをはせることができるような、初春らしい清々しく心温まる幕切れでした。

 中村吉之丞丈の杉田五左衛門が、役者ぶりがあがり存在感が出てきていたのがとても印象に残りました。今後がとても楽しみです。
 少し残念だったのは堀部安兵衛と松平隠岐守でした。坂東亀蔵丈に堀部安兵衛をという話もあったようですが。この座組であれば安兵衛と隠岐守は反対の方が、お互いに良いところが出たようにも思われます。
 為所がたくさんあるわけではなく、主に立ち居振舞だけで、十太夫が偽りを言ってしまうほどの存在である安兵衛を描くには、今の市川中車丈ではやはりまだ荷が重すぎたように感じます。
 また、亀蔵丈の隠岐守は性根を写実的に描こうとしたためなのか、今回人物が小さく見えてしまったように思われました。松緑丈や吉之丞丈の存在感が増した分、それが目立ったのかもしれません。大名としての格や背負っているものの厳しさを感じさせた上で、はじめて寛大なさばきがいきてくる、というようなメリハリが今回うすくなったように感じられました。

 新作をブラッシュアップしていくというのは、実はとても大変で難しいことなのだなということが、今回見ている側にもよくわかり勉強になりました。ただ、その難しさが、創作の醍醐味であることも事実でしょう。
 見ている側は、勝手なことを言ってしまいますが‥。
 これからの試みにさらにご期待申し上げます。

 狐狸狐狸ばなし

 今回の上演では、ドタバタの喜劇というだけではない、人間というものを考えさせられるような、作品として厚みがある舞台になっていたように思います。
 どこにでもいる人間が、きっかけさえあればどんなことでもしてしまいかねない‥。人間の愚かさや怖さまでをも感じさせる舞台となっていて、一部の観客には、初春芝居としては、刺激的すぎるともいえる出来栄えとなっていたかもしれません。

 その一番の要因は、やはり松本幸四郎丈の手拭い屋伊之助の人物像にあるでしょう。元上方の女方であったとの設定ですが、喜劇的でありながら、ねっとりと執着の激しい人物としてよく描いていらっしゃいました。
 そうした人物像であるが故に、おきわがただの怠惰で浮気な性悪女というだけではなく、触られるのも嫌な男の妻になってしまっていることへのいらだちややるせなさ、哀れさに説得力が生まれていたように思われます。
 伊之助の罠に容易にはまってしまい、どこにでもいるような女性が大胆な行動にでてしまうことへの説得性が、そこに生まれ得たように私には思われました。

 上方役者の味わいをもたせつつ、単なる喜劇的な芝居におわらず、どこにでもいそうだけれど、女性に嫌われる性行のある伊之助を幸四郎丈が楽しそうに演じていらっしゃいます。
 時代物の大きな役よりは、こうした系統の役の方が、まだまだ楽しく演じられるのでしょう。
 意図的か、結果としてたまたまそうなったかはわかりませんが。幸四郎丈の描く伊之助の人物像によって、この作品の人間ドラマとしての側面に、観客の目が向いたということは確かだと思います。芝居として厚みが出たという点で、大きかったように思います。

 この作品が、ドロドロとした愛憎劇にならないのは、歌舞伎ならではの演技の様式性に負うところが大きいように思われます。
 あばずれのような嫌らしい女性になりかねないおきわも、女形であるため必要以上に生々しくなりませんし、身のこなしが美しさを引き出します。
 また、尾上右近丈の芸質に負うところも大きいと思いますが、おきわの人間としての嫌らしさよりは、一人の男に一途な女性としての情が自然と出るところに目が向くので、おきわよりは伊之助を嫌う見方が出てくるのもうなずけます。

 よく考えれば、おきわが正気を失った振りを続けつつ、自分を棄てた重善とよりを戻そうとするたくましさは、ある意味恐ろしささえ感じます。ただ、決しておきわの人物像は、普通ではあり得ないこと、とは言いきれないのではないか。人間は、状況によってはそうしたこともしかねないのではないか。そんなことを考えさせられました。
 ただ、嫌な気持ちならないのは、あっけらかんとさっぱりとした、右近丈特有の女性としてのかわいらしさも出るため、毒々しい作品と思わずにすむことが大きいのではないかと思われました。

 また、法印重善も中村錦之助丈が演じることにより、嫌らしく毒々しい人物にならないところも、大変シニカルでありながら、後味の悪さを残さない作品に仕上がった要因と言えるのではないかと思いました。

 市川青虎丈のおそめが、面白く喜劇性を高めていました。
 市川染五郎丈は、雇人又市をよく演じており、ベテランのなかで、若い役者が入ることにより、面白い味付けとなることのよい例となっていると思います。ただ、さすがに狂言作者として出てくる場面では、まだ線の細さが気になってしまいましたが‥。

 浅草に比べて、古典作品が少ないと前評判はよくなかったようですが。
 やはり、歌舞伎座だからこその大芝居を見せていただいたと、私には思われました。
                   2024.1.6

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