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辰 松竹特別歌舞伎 『中村獅童のHOW TO かぶき』『鞘當』『供奴』『橋弁慶』

<白梅の芝居見物記>

 中村獅童のHOW TO かぶき

 令和6年度全国公立文化施設協会主催の「松竹特別歌舞伎」を拝見。
 三本とも大変コンパクトな演目が並ぶなかで、この一幕は多くの方々に歌舞伎を知って頂きたい、楽しんで頂きたいという思いが伝わるものでした。
 中村獅童丈のご挨拶から歌舞伎の紹介を簡単にされた後、『鞘當(サヤアテ)』を任された中村蝶紫丈・澤村國矢丈・中村獅一丈が化粧をし衣裳・鬘を着けるところまでを舞台上で観客にお見せする趣向。大きなスクリーンにアップを映し出しながら、獅童丈が客席からの質問に答えたり、観客とコミュニケーションを持ちつつ見せて下さいます。

 中村獅童丈は歌舞伎座での六月大歌舞伎興行を背負われた中のお一人として充実した毎日を送ってきたからでしょう。羽織袴の素の姿にも品位と大きさがにじみ出ており、頼もしく成長されている姿が印象的でした。
 また「超歌舞伎」で見せていた舞台と客席との一体感を出そうとする姿勢は微笑ましいものでした。大劇場では賛否が分かれる素人による「大向う」ですが‥。大向こうに挑戦して楽しんでいる若者の姿や観客の反応を見ていると、「遠慮せずに屋号を発して欲しい」という獅童丈の姿勢は持ち続けて欲しいように、私には思われました。

 見ている側にとって「超歌舞伎」ほど盛り上がることは、一般の観客にはそう簡単なことではないと思います。
 獅童丈には観客の反応を期待し過ぎず、だからといって決して諦めることもなく、観客とコミュニケーションを取っていく姿勢を大切にしていっていただけたらと思います。
 今回は、小さいながら中村夏幹丈が羽織袴姿で堂々と舞台の中央にまで進み出て見得を披露する場面もあり、観客を大いに楽しませてくださいました。 

 其俤対編笠(ソノオモカゲツイノアミガサ):鞘當(サヤアテ)

 歌舞伎は、慶長年間(1596~1615)に出雲の阿国が上演した「かぶき踊」から始まったとされています。
 名古屋山三郎という人物は織田信長の縁者を母とする実在の人物であり、不破伴左衛門も豊臣秀次の小姓であった不破万作(バンサク)という実在の人物をモデルにしていると言われます。
 阿国と山三とは夫婦であるという俗説がありますが、室町末期から江戸初期にはすでに、阿国歌舞伎の舞台で演じられていた芸能を素材に阿国と山三の伝説を取入れた「歌舞伎草子」という絵物語が成立しているくらい、山三の物語には歴史があります。

 この絵物語に描かれている阿国と山三は、史上実在した阿国と山三をモデルにしているわけではないのですが‥。
 この草子のモデルとなっている人物は歌舞伎という演劇にとって非常に重要な人物であることだけ指摘して、ここでは深入りしません。
 不破伴左衛門は、延宝(1673~1681)頃上演された土佐浄瑠璃作品において、はやくも名古屋山三の恋敵として登場します。歌舞伎における不破は史上の不破万作と全く無関係というわけではありませんが、伴左衛門のモデルも実際には別にいて歴史上大変重要な人物です。

 現在の『鞘當』は、四世鶴屋南北作『浮世柄比翼稲妻(ウキヨヅカヒヨクノイナヅマ)』(文政6年<1823>江戸市村座)という芝居の一部として上演された時の型が伝わっているとされます。大南北時代の作品ながら、当時としても古風な演出にこだわって作られた場面であったようです。
 この作品は単に、一人の女性を巡り争う二人の男性を女性が留めるというだけの場面を見せるにすぎないのですが‥。代々の大立者によって大切に演じ継がれてきた作品でもあります。

 古風さを大切にし深い思いや重みをもって継承するには継承するだけの理由のある作品。
 歴史的な背景をもち、大立者が演じ継いできた作品ですので、最初今回の公演における配役を知った時には大変驚きました。
 それは、大立者の存在感や、色や艶、長年積み重ねてきた芸の深み、そうしたものを私自身この演目に今まで見いだしていたからに他なりません。

 それが蓋を開けてみると、國矢丈による名古屋、獅一丈による不破、蝶紫丈による留女。お三方の舞台には今までの舞台では見たことのない新鮮な面白さを感じることが出来ました。
 巡業とは言え初めて演じる古典の大役です。教わったことや見てきたことをいい意味での緊張感をもって演じていらっしゃる舞台は、無意識にせよ舞台慣れしてしまっている舞台から感じられない面白さが確かにありました。
 役者の”芸”で堪能するまでにはいかない分、見物としても今まで気付かなかった作品に対する発見もあり、十分楽しむことが出来ました。

 役者としての魅力で見せてくださるという点では、芸の年輪を重ねてこられた蝶紫丈の留女がひときはいい味わいを出されていたのが、印象的でした。
 若い長唄さんも含め、小さい一座ながら、歌舞伎の魅力を十分に観客に楽しんでいただくことは可能であることを、実感させていただける舞台でした。
 舞台を創造していく上で最も重要なことは、舞台に上がる役者さんの熱意や誠意、真摯な思いや向上心なのだということを改めて考えさせられました。 

 供奴

 <供奴>は文政11年(1828)江戸中村座において、二世中村芝翫によって演じられた「七変化舞踊」の中の一つの役柄で、歌舞伎では踊りの名手によりよく上演される演目です。
 「七変化」舞踊とは一人の役者が七役を踊り分ける趣向の舞踊を言います。初演時には、<傾城><芥太夫(ゴミダユウ:門付け芸人の一つ)><供奴><乙姫><浦島><瓢箪鯰><石橋>の七役で構成されていました。
 <供奴>は武家の主人の下働きをしている奴が、主人の廓遊びの供として吉原仲ノ町に来ている様を描いており、当時の風俗が活写された楽しい舞踊です。

 今回の、中村種之助丈は、肌脱ぎした後はさすがによさが出てきていましたが、出だしは冷房で身体を冷やしすぎていたからでしょうか、ただ力任せに身体を雑に動かしているような印象を受けたところが残念に思われました。
 この踊りは身体が動く役者さんにとっては踊っていても気持ちがいい演目なのだと思います。ただ、身体が動く分、ともすれば間や溜めがスムーズな身体の動きにかき消されがちなところがあるようにも感じられることがよくあります。
 変化舞踊の魅力は、たとえ拍子の面白さで魅せる奴の踊りであっても、身体をこれだけよく動かすことが出来ます、というだけで済む舞踊ではないように私には思われます。身体を自在に動かせて力強さを感じさせることが出来れば、多くの観客の受けはいいかもしれません。ただ、踊りで大成していかれるのであれば、”間”の面白さにもっと工夫を凝らしていかれる野心があってもいいように私には思われるのですが、如何なものでしょうか。 

 橋弁慶

 今回の上演は、明治45年(1912)初演された能の『橋弁慶』をベースにした長唄の舞踊なのでしょうが、今回は松羽目物としては上演されていませんでした。どこか違いがあるのか、歌舞伎では本来松羽目物として上演される必要もないのか、私にはわからないのが申し訳ないのですが。

 今回の舞台は、中村陽喜丈の牛若丸が観客の注目を一身に集め、会場がひときは盛り上がるような大きな拍手をいただく舞台となっていました。

 小さな演じ手を相手にして踊ることの難しさは、観客が想像する以上に大人にとっては大変なものであろうことは想像に難くありません。ただ、それを差し引いても獅童丈には自分の踊りを、観客にどうだと魅せるような心意気がもう少し欲しいように観客の立場としては思われました。
 観客の目はどうしてもかわいらしい幼い子に釘付けになってしまいます。ただ、同じような状況の中でも超然として素晴らしい踊りを披露されていた中村勘九郎丈の姿が思い出されます。
 獅童丈も小さなスターに嫉妬(?)しているばかりでなく、さすがにお父様の踊りは違うものですね、と言われる踊りを披露すべくもうひと踏ん張り奮闘してくださることを期待したく思います。
 獅童丈も気苦労が絶えず、またお疲れがたまっておられる時期だとは思いますが‥。
 「お気張りなさんせや」

 もう一つ、是非とも言及しておきたいことがあります。
 『橋弁慶』の幕が引かれても鳴り止まぬ拍手に応えて、獅童丈と陽喜丈が幕外の舞台中央に出て正座をしてご挨拶をしてくださいました。お父様が言葉を述べている間、その横で行儀良く手をついて頭を下げつづけている陽喜丈の姿が大変印象に残りました。その上、舞台袖に引込む時にもきちんとしたお辞儀を客席に向かって自然にされていて、その姿に客席からもじわがおこったほどでした。
 そうした姿を見ていて、歌舞伎も歌舞伎に限らず日本社会の行く末もきっと捨てた物じゃないなという思いを強くしました。
 大人がしっかりしていれば、それはこんな小さなお子様にも受け継がれていく。そんなことを強く感じながら、気持ちよく会場を後にすることが出来ました。
 そんな感動を与えて下さった公演に、私は感謝せずにはいられません。
                    2024.7.2

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