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大阪松竹座七月大歌舞伎1 仁左衛門丈の至芸

仁左衛門丈の至芸

 コロナ禍を乗り越えて、大阪道頓堀にて、大阪松竹座会場100周年記念の大歌舞伎が、賑々しく上演されたことは、まことに喜ばしい事です。
 南座の顔見せとともに、道頓堀の芝居の灯火を消さず、上方歌舞伎の伝統を守っていこうと行動をし続けること。その不屈の精神のとうとさをあらためて感じます。
 片岡仁左衛門丈がおっしゃるように「いかに良い公演にするかを一番に考える」。その思いの積み重ねがいかに大切か。
 コツコツと誠心誠意、高みを目指して足元を固めていけば、道は開けていくものなのだと、私自身も大変勇気づけられます。

 近年の仁左衛門丈の舞台は、一つ一つ、すべて素晴らしく充実していますが、松竹座での『俊寛』も、心に残る、大変良い舞台でした。
 仁左衛門丈の描く俊寛は、芯の強さを持った人物としての大きさの一方で、人間の弱さ、温かさ、そして人間の「業」というもの‥‥。一途に生きてきた‥、生きようとしている‥、そうした人物が今そこで息をしている。観ているこちらが、その心の動きの中で、浄化されていくような舞台でした。

 義太夫狂言というのは、演じる役者によっても、様々に掘り下げられる骨格の太さがあります。
 昨今の新作歌舞伎でも、竹本のテイストを入れる試みがよくなされます。なんとなく、義太夫や竹本を使うと歌舞伎らしくなる、というところに、まだとどまっている状態だとは思いますが‥‥
 芝居の運びの中で、「間」を使う技術が、歌舞伎の古典性を支えていることは確かだと、私は思っています。
 そうした「間」を使うことを見直すためにも、先人の当たり狂言だけでなく、もう少し埋もれてしまっている義太夫狂言に、果敢に挑戦していくことも、大切なように思われます。

 話が少しそれました。
 今回の仁左衛門丈の『俊寛』では、成経の幸四郎丈が大変いい味わいを出していて秀逸でした。また、千鳥の千之助丈が、若さを生かした、初役ならではの初々しさが魅力の舞台ともなっていました。
 私は、この俊寛を見て、古典作品における座頭役者の役割について、改めて考えさせられました。

 歌舞伎では、古典作品において、わざわざ演出家をおくことはしません。しかし、芯になる役者がおり、その役者が全体を見渡し、他の役者にアドバイスや意見をして求心力となっている場合、共演者が自然と調和してゆき、舞台全体に統一感が生まれます。絶対的な役者がいることは、その舞台に緊張が生まれ、引き締まった舞台になっていく、そうしたことが、ようやく私にも見えてくるようになりました。

 一頃前までは、菊五郎劇団的色合いとか、吉右衛門劇団的色合い、等々、というものが、確かにありましたが、今は混沌としている部分が拡大していることは否めません。
 それでも、御大達が締める舞台の古典としての重厚さが違うのは、その求心的な存在感によるところが大きいのだと、御大達に頼れない不安定な舞台が増えてくると、実感しないではいられません。

 そして今、仁左衛門丈の芸境に思いをいたすとき、丸本歌舞伎も、近松作品も、黙阿弥物も、南北作品も‥‥、すべて、作品そのものの世界観や、それを演じる役者の技法、そうしたものを超越した芸境があることを、実感させられます。すべてが「仁左衛門丈の芸」という、一括りに昇華されているのだと言えると思います。
 「歌舞伎役者がやれば、すべてが歌舞伎だ」
 その究極の歌舞伎役者の芸を見せて下さっているのが、今の仁左衛門丈だと思います。
                          2023.7.25

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