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銭湯のある町。

母と夫と、引っ越してはじめて地元の銭湯へ行ってきた。
うちの一家は、銭湯フアンだ。
あの「ゆ」とかかれた煙突を見ると、我々は裸になりたくなるのだ。

あの木の燃えたつ匂い。空にのぼる、黒い煙。
百円玉を数個握りしめて、小脇に洗面器を抱え、小さな石鹸カタカタ鳴らして、行くのだ。ビバ裸族!

町の中にこれを見つけると脱ぎたくなる。

わたしは、銭湯での、濃密かつ、まさに赤裸々な裸一貫での付き合いというものに、人間の真の姿、大和庶民文化、ゆりかごから墓場まで、色んな教えが凝縮していると思っている。

被服と心理の関係は非常に面白い。被服を脱いだとき、人はただのヒトになる。○○さんのママとか、奥さんとか、社長さんとか、こうありたい、こう見せたい自分とか、それらのペルソナをいっしょに脱いで、あの脱衣かごにブッ込む。

赤ちゃんの体重計がなつかしい。

私はタオルで前を隠したりなんかしない。逆に隠せば注目を浴びることをこの身で知っている生まれたときからの銭湯利用者である。

「いっしょに行く子が隠してたらあんたも遠慮するのよ。オンナってそういうもんだから。」と銭湯で近所の姉御に教わった。

 銭湯ではさまざまな流儀がある。

まず、入り口は素早く閉める。暖簾はあれど、外からのぞく輩もいるかもしれない。今思うとずいぶん解放的だが、そういえばうちの近所の銭湯は、暖簾一枚以外に、脱衣所を遮るものはなかったから、男子が背を低くしてその瞬間をまち、女湯をのぞいていたものだ。

こちら側とあちら側の世界の境界が、まだ薄かった時代だ。

近所の銭湯はこんな立派な暖簾ではなかった。
すべてはおかみのハンドメイドだった。

なにより、冬は寒いから、in&out でぐずぐずしているとこっぴどく叱られる。とにかくサッと入り、サッと去るのが流儀。

当然、ご挨拶が必要だ。
今晩は〜でin。おせわになりました〜でout。
これが言えるようになってはじめて一人で銭湯に行く権利を得る。

履き物はロッカーに仕舞う人はお金持ちだった。平民はその場で脱靴。それなので、混み具合を知るのに、先ほどの男子のように暖簾の下をのぞいたものだ。

履き物を脱いだら、自分のだけでなくその場の履き物全員分を揃える。
そのように躾けられた。

一段上がるとそこはすでに脱衣所だ。高く積まれた脱衣かごをとり、端っこを陣取る。混んでいるとど真ん中しか空いてないので、ど真ん中でストリッパーになることになる。

脱ぐ姿をじろじろと見られる。当時の近所のBBAたちは、そうやって子どもの成長をあたたかく見守ってくれていたのだ。

マイ下駄箱を年間契約しているのはセレブ。

ところが思春期ともなると、この遠慮ない視線がつらい。
米国人の従姉妹は、来日すると毎夜「銭湯に行ぎだぐないー」と泣いていた。物珍しそうに上から下までじろじろとあの目線に晒されるのは確かにつらい。

大人はそうしてじろじろ見るくせに、子どもがじろじろ見ていると「人の裸をじろじろ見るんじゃないよ!」と叱られる。(どーでもいいけど、じろじろ見るって、すごいパワーある擬態語だなw)

私は赤子を抱く、帝王切開の傷跡が生々しい母親をじろじろ見ていたのだ。
赤ちゃんはお腹を割って出てくると聞いていたから、「あの子もおなか割って出てきたのか」と感心していただけだった。

脱衣かごには一番上にバスタオルをかけて、脱いだものを隠すのがマナー。友達ときたときには「♪今の君はピカピカに光って〜」と歌いながら、みやざきよしこぉおおーーーーー!と脱ぐのだ。

さあ、バスセットを抱えて、いざ、風呂場へ。

いたずら書きしたい衝動にかられたなあ。

入ったらまず誰がいるか見渡す。挨拶をせねばならないし、近所のおばあちゃんがいたら、お背中を流さねばならないからだ。知らなかったじゃ済まされない。ヤクザか。

若者は下座へ座るのが礼儀だ。上座はご年配にゆずる。下々は先輩方の流れてくる垢にまみれながら、自分を綺麗にするのだ。上座がひとつあいたら、ラッキーとばかりに上座に行く。それでもまた年配者がきたら下座につめる。そういうものだ。

まずは我が身を手短に洗ってから風呂につかる。この行為がないと、大声で「ちょっとあんた!洗ってから入りな!」と誰かに叱られる。当時はそんなふうに、いつもあたたかく見守られていたのだ。

風呂湯は熱くても水でうめてはならない。どうしても水でうめたいときには、自分が水道の近くへいって”今ここ”ほんの数秒は許される。あまりにうめているとこれまた叱られる。浅い方は43度、深い方の45度は拷問レベルだった。勇者は茹でダコになったものだ。

ケロリン一択。

いよいよ本格的に体を洗う。後ろに泡が飛ばないように、細心の注意を払う。シャワーは使ってはならない。こどもだからといって立って浴びるなんてもってのほかだ。座ったまま静かに湯桶で泡を流す。

流すときにもなるべく手前に向かって湯をかけろと躾けられた。自分の泡が流れても、後ろに流れた泡まできれいにお湯で流すまでがマナー。泡で誰かが滑ったら大変なことになるからだ。(前身に石鹸塗りたくって、滑って遊ぶのは別。当然こっぴどく叱られる。)

何度か目撃したが、風呂場で倒れた場合、固いタイルに血流がよくなっているので、かなりの流血沙汰となる。そして倒れた損で、風呂ネタとして数日語られることになる。私も一度貧血で倒れたことがあるが、幸いにも脱衣所だった。しかしおっぴろげで介抱されるのも、結構恥ずいものだ。

シャワーには厳しかった昭和。

髪を洗うときにはさすがにシャワーを使うが、これが、飛び跳ねる!と嫌うご年配者がいて、非常に気を遣う。下を向いてシャンプーを流したら、上を向いてバサーっ!と本来やりたいが、そんなことしたら大惨事となる。静かにティモテが限界だ。

とにかく、ぶっちゃけると、ばばあたち、うるさい。

ご指導がめっちゃくちゃ厳しい。知り合いのおばあちゃんを見つけたら、お背中流しましょうか?と声をかけるように躾けられた。おばあちゃんたちはうれしそうに、自分の垢すりを手渡す。

もっと真ん中、もっと右、もっとゴシゴシやって!などという指示に従い、下僕のように垢すりをしてまわるのだ。いそがしい時には3人も4人もいる。だからこそ時間帯には気をつける必要がある。ずる賢くなってくると、ばあさんたちの履き物を覚えて、暖簾の下をのぞいて、時間をずらしたりしたものだ。

湯加減の調節が楽しかったハンドル。

上がる(風呂場をでること)ときには、必ず足元をながしてから出ること。泡がついていたりするからね。出たところに、おかみさんお手製のバスタオルの足拭きマットがあって、その上で体にまとったしずくを拭き落とさないで自分の脱衣かごにバスタオルをとりにいった日にゃあ、床を濡らさない!とおかみさんに叱られる。

だから上がってすぐの足拭きマットの上で体を拭いていると、「邪魔!」と他の客に言われたりするのだが、しっかりここで水気を拭き取るため、バスタオルに手を伸ばす頃には、すでに拭くところなくね?といつも思っていた。

小学生だとこの他、赤ちゃん接待の仕事も待っている。白湯をのませてげっぷをさせて、抱っこしたりねかしたり、シッカロールをぬったり、あせもにアセレスをぬったり、服を着せたり、遊ぶ相手をして、おかみさんとともにママの入浴の手助けをするのだ。

新生児室のように、長座布団の上に寝かされて並ぶ赤子たちをみると、かわいくて不思議で仕方がなかった。生まれた子の頭の形を気にしてるママ、夜泣きがひどくてとこぼすママ。ここは成長の度合いについて、おかみさんやご年配者に相談する場でもあった。

赤ちゃんの面倒をみると、ママからパンピーオレンジを奢ってもらえるので、自ら志願して世話をしたものだ。

閉店間際にいくと
おかみといっしょに床を磨くことになった。


赤子からヨボヨボまでの姿を知って育つことは、
ヒトというものを知りながら育つ上で、たいへん貴重なことだ。

近年、赤ちゃん自体を触ったこともない、他人の裸を見ずに育った、という親御さんも結構いるし、高齢者と接したことがないまま介護士になる若者もいる。

もしも、あの頃の銭湯に通っていれば、兄妹がいなくても、ご近所・親戚付き合いがなくても、赤子の扱い方から年長者の敬い方、第二次性徴期に自分にいったい何が起きるか、妊娠したらどうやって腹がでかくなるか、出産後の乳がどうなるか、閉経ってなんなのか、皺がれるとは、ボケたらどうなるのか、自然と全部、いっぺんに見ることができるのだ。

 戦争の生々しい傷あと、
 背中の紋紋、
 障がいのある人、
 訳ありの妻、
 知りたがりのババアたち、

裸になれば、みんな面倒くさいものとっぱらって、その真を知ることができたのだ。

今のシャレ乙なサウナとはまたちょっと趣も違って、下町の銭湯は、大いに干渉されるまことにうるさい空間ではあったが、同時に「人」の一生を観察できる、豊かな体験の場でもあったのだ。


銭湯のある町が好きだ。
仮住まいにしては、ここはもったいなすぎる。

2015年9月20日 · 東京都足立区 ·での記事。

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