見出し画像

ことばを歌うということ

テヨンのソロコンサートSIGNALの大阪公演に行った夜、わたしはなかなか寝つけなかった。耳にはその力強くて透明な歌声がずっと残っていたし、明りを消してまぶたを閉じても、ステージでたましいをふりしぼるように歌う彼女の姿が、なんども浮かんで離れなかったからだ。けっきょく眠れたのは、ほんのり朝の気配がしはじめたころだったと思う。

その日の彼女のコンサートはほんとうに素晴らしかった。テヨンはとにかく歌が上手で、公演がはじまって3曲目あたりまで、もしかしてCD音源を流しているのでは、とあやうく誤解しそうなほどだった。一緒に行ったSONEに「いまほんとうに歌ってる?」と思わず失礼な質問をしてしまったけれど、「うむ…どうだろう。たぶん歌ってると思う」と予想外にあいまいな答えが返ってきたので、あながち間違った質問でもないようだった。

テヨンが自身の声で歌っているとはっきり分かったのは、VOICEのステージからだった。しんと静かなステージで彼女が最初の一節を歌いはじめた瞬間、その声がさざ波のように打ち寄せて、あっというまに会場を感動で満たしていった。
あのとき、わたしは初めてテヨンの感情的な声を聞いたような気がする。音程はあいかわらずCDみたいに安定していたけれど、感情はたしかに揺れているようにみえたのだ。
彼女の声は、みじんも揺らがない安定した歌唱とはげしく揺れ動く生々しい感情が混ざりあいながら存在している。ほとんど乾いているのに中心だけは常にうるおっているような、繊細で複雑な声だ。人はこんなふうに歌えるものなのかとふしぎに思うほど、VOICEを歌うテヨンの声はきれいだった。

それからいくつかの日本の新しいオリジナル曲を披露したけれど、どれもテヨンによく似合うとてもいい曲だった。とくに歌詞は彼女の雰囲気とあまりにぴったりなので、作詞家の意識の高い仕事ぶりについ感心してしまう。

テヨンの歌はたいてい、かなしい。かなしくて、淋しくて、いつも会えない誰かを想っている。
そして、こんなにかなしそうなのに、彼女はそのかなしみをだれとも分かち合おうとはしない。自分だけのかなしみや淋しさを外の世界から慎重に守っているようにもみえる。彼女のこころにどれほどの痛みがあるのかとうてい知ることはできないけれど、その苦しみを隠さない無垢な歌からは、ただ強く生きたいと願うきもちがまっすぐに伝わってくる。

VOICEのように日本語の楽曲でも感情が率直に伝わるのは、テヨンの日本語の発音がとびぬけてうつくしいことに関係があるのではないかと思う。
テヨンの日本語の発音はとてもきれいで、知らずに聴いたらほとんど外国語を歌っているとは思えないくらいだ。一語一句ことばの意味を理解して丁寧に歌おうと努力しなければ、たぶんこうはならない。
テヨンはことばをとても大事にする歌手だと思う。彼女が歌を歌うとき、たとえそれが外国語であっても、歌詞を単なる音の一部にさせたりしない。ことばは彼女にとって表現の重要なパーツにちがいないからだ。

外国語の歌詞にはそこまでこだわらなくてもいい、と好きなアーティストたちが日本のオリジナル曲を出すたびに思っていたけれど、ここ最近のSHINeeやテヨンの日本活動でその考えは大きく変わった。歌詞を大切にすることは、けっして自分の気持ちをおざなりにはしない、という表現者のひとつの意志なのだと思う。

わたしは彼らの歌うことばに散らばった、かなしみや痛みや喜びや優しさをひとつ残らずすくって、こころにとどめていたい。それぞれがことばにこめた思いを今はなにより大切にしたいのだ。

そういえば、テヨンのことをぐるぐる考えて眠れない夜を過ごしたあと、ふわっと短かい夢を見た。テヨンは神様の作ったこの世で最もうつくしい楽器のひとつなんだよ、とだれかがこっそりわたしに教えてくれる、ちょっとおもしろい夢だった。
テヨンは可愛らしい女の子のかたちをしているけれど、ほんとうはだれも知らない神様の楽器、なんだって。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?