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自分で決めて、自分で発信するときの不安は、運転免許を手にして、はじめて車を運転する時の恐怖と似ている。

自分で決めて、自分で発信するときの不安は、運転免許を手にして、はじめて車を運転する時の恐怖と似ている。

―というお話。

なぜ、こんな話をするかというと、私自身がまさに今、その恐怖に心打ち震わせているからである。
HSPに関して学びを進め、「これは広めたい認識だ」と思い、今月「メッセンジャー講座」なるものを受講した経緯がある。


3日にわたる講座では、HSPの知識やアウトプットを経て、伝えた方まで手ほどきを受けた。いろんなことが腑に落ちたし、言語化できていなかったものが、言語化できるのは爽快だった。手にした実感があった。
しかも後日、SNSに講座を受けた経緯を掲載したら、「ぜひ共有してほしい」というリアクションまで得たのである。

―そこで、「恐怖」に直面するのである。

自分でもびっくりするくらいの恐怖である。


あまりにびっくりしたので、恐怖の源をひも解いてみようと、理由を考えてみた。

①本当はそもそも望んでいなかった
②失敗したらこわい
③批判されるかもしれないのがこわい
④得体の知れない恐怖

「①と③は違うな」

と思った。私は依然HSPの広がりを望んでいるし、批判以前に、開催をむしろ望まれているのである。
つまり②と④がカタい。
そこで②でいうところの「失敗」というのが、何なのかと考えてみる。

1)最後まとまらなかったらどうしよう
2)進行が不自然だったらどうしよう
3)分からない質問がきたらどうしよう
4)この人ダメだな、と思われたらどうしよう

これについて、対処方は思いつく。

1)事前に練習すればいい
2)周りに助けてもらえばいい
3)分からないことを認め、事後調べてみるよう伝えられたらよい
4)ご縁がなかったと思えばよい

―それだけの話である。

とすると、「恐怖」のおおもとは

「④得体の知れない恐怖」であると考えられる。

これはつまるところ

「まだ、学習者という安全な場所にいたい。」
という心理である。


ところで、こういう心理は初めてではないことに思い至る。

一番よく似ているのは「免許をとったあとの最初の車の運転」だ。
教習所で受け身であったときは、安全が保証されていたし、「できない、わからない」が通った。
1人で運転するのだから、判断を全部ひとりでしなければならない。あれはコワかった。
エンジンをかけるまでにやたら時間かけたり、やっぱり明日にしようか、と考えたり。

次に似ているのが、初めての出産後の退院時だ。
それまで、ナースの人たちが手取り足取りやってくれたし、いつだって質問に答えてくれた。病院にいる間は、私は「初心者」であることを許されていたし、「いざとなったら誰かがなんとかしてくれる」の保険感がハンパなかった。
1人でケアする場合は、判断を全部自分が行わなければならない。どこまで気を抜いていいのかダメなのかわからず、でも絶対守り抜く必要があるので、通常の100倍くらいのアテンションを向けていたのを思い出す。


―で、これらの「恐怖体験」を思い出したことで、1つ今の自分に問いかけてみた。

「で、私は今毎日気軽に運転をしているし、2人目以降の育児は余裕で気を抜いていた。この事実をどう解釈する?」

そう。

それは恐怖をもってして、後ずさりしながらも「進んだ」から「できた」のである。


もちろん両方とも、進まざるを得なかったから進んだわけであるが。

それに実際「せざるを得ない」の力は圧倒的である。「やめる選択肢がない」というその一点に関して。


ただ、考えてみれば、そこまでの恐怖をもたなくても大丈夫だったことに、今になって気づくわけである。


「とりあえずやってみる」
がこわかった自分の心理はここにあった。

そして、怖がる必要はそもそもないのである。

たいていのことは、1ヶ月すれば慣れることを、私は知っている。


運転も
育児も

たぶんHSPの会の企画も。

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