”自己犠牲”という病
僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺんやいてもかまわない
ー 『銀河鉄道の夜』より
私たち日本人は、いや日本人に限らず、人類は”自己犠牲”というものが大好きだ。
有事の際、自らの命を顧みず仲間の安全を優先したリーダーは間違いなく英雄だっただろうし、今日においても自分の利益より他者を優先できる者は称賛される。
今回、noteに”自己犠牲”について書こうと思ったのは、先日あるツイートをしたところ多くの反応があったのがきっかけだ。
サッカー選手だった頃、私は最年少だったので水汲みやピッチ設営などの雑務もしばしば引き受けていた(規模が小さいチームにとってはあるあるな光景だ)。
私は本音ではこのようなことはやりたくなかったが、やらないと先輩たちから怒られるので渋々やっていた。
やりたくもないことをチームのためにやる。私は立派に自己犠牲の精神を体現していると思っていた。
でも、ある時ふと思った。
「いつも当たり前のように雑務をしているけど、誰からも感謝されたこともなければ得もしていない。それどころか『あいつは言われたことは文句も言わず何でもやる奴だ』というレッテルを貼られて逆にプレーに悪影響なんじゃないか?」
そう、チームのために”自己犠牲”していたつもりが、誰の役にも立っていない。誰からも感謝されていない。
そういったことは往々にしてある。なぜだ?
一方、サッカーを辞める最後の半年、チームメイトからも徐々に認められ始めてからは、同じ雑務をやっていても
「いつも悪いな」
「ありがとう」
「別にお前がやらなくてもいいのに」
と言われることが多くなった。
同じことをやっているのに、なぜだろう?
考えた結果、ある結論にたどり着いた。
”自己犠牲”とは、その人が周りに提供できるものがあって初めて価値がつくものなんだ。
チーム加入当初の私は、プレー面で貢献できるものがなく、いわばフィールドにいてもいなくても変わらない存在。そんな存在が”自己”を犠牲にしたところで、元々提供している”自己”が0なのだからチームのパフォーマンスを押し上げることにはならない。
対して最後の半年の私は、ピッチ内外でチームに貢献できることが増えてきたからこそ、そんな存在が”自己”を犠牲にしチームの利益のために行動すると、価値になるし感謝もしてもらえるんだ。
つまり、チームに必要な自己犠牲をしようと思ったら、逆説的ではあるけれど、まずはチームに必要な存在にならなければならなかったんだ。
”自己犠牲”をすればただそれだけでチームに貢献できるわけではなかった。
まず自分。最優先すべきは自分。自分のために仕事をして価値を周りに提供できるようになって初めて、”自己犠牲”は価値を持つ。
うまくいっていない時に、”自己犠牲”を心の拠り所にしてしまう気持ちはわかる。何もしていないよりは何かをしている気になるから。
でもそれは文字通り、自己をただ犠牲にしているだけで、組織にとってプラスの何かをもたらしているわけではない。
ここに気づかなければ、自己を犠牲にしたまま、自分は何も得ることなく一生搾取されたままになる。
競争という自然の摂理が蔓延るこの世界で周囲を照らそうと思ったら、自らの身体を燃やす前に、まずは自分自身の力で輝かなければならないのである。非常に残酷ではあるが。
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