人に見られたくないという気持ち

少し前に、児童精神科医の先生に長男を診ていただく機会があり、施設へ行きました。いつも長男のユニットを担当してくれている職員の方に同行いただき、通所施設と同じ棟にある診察室へ伺います。

職員の方と、長男を待つ間に、高校生くらいかな?という、入所している男の子に声を掛けれました。「長男のお母さん?」とピタリ当てられて、はい、そうです、とどきまぎしながら答えると、長男知ってるよ、一階の部屋に住んでいるでしょう。と言われ、長男はわたしにそっくりなのですが、それでもコロナ禍でマスクをしていてもすぐわかるほどなのか、だとか、障害の程度って本当に様々で、こんなふうにやりとりできるような子もやっぱりいるのだな、だとか、色々考えました。

診察を待つ際に、足腰の発達が遅く、リハビリをしている子や、うちの子のように多動の子、色んな子がいて、長男は身体だけはとても丈夫でよく動き回るので、ひやひやしましたし、それぞれの事情を思うとはやく呼び出されないかな、と思いました。ここへくるといつもなにかしら考えずにいられません。

そんななかで、長男もやっぱり走り回ったり椅子に上ったり落ち着きがありません。リハビリをしているお子さんの親御さんが、はっきり眉を潜めていて、それを見て、被害者面する権利なんか持っていないけれど、そういう視線に久々に触れたことで落ち込みました。入所施設のなかで、長男はまだ幼く、可愛がられていると聞いていたのもあり、居場所さえ選べば彼も愛されながら生きていけるのだな、と感じていました。それがひとたび健常者の目に触れるとガタガタに崩れてしまう。わたしは長男を人前に連れていきたくないという、同居していたときの気持ちが沸き上がるのを抑えられません。来年から、療育園への通所ができるようで、とてもありがたいし、なにより本人のためになる。それなのにわたしは、人目に触れて、眉を潜められるのが恐ろしいです。

施設の目の前に支援学校があります。着いたときには、裏庭のようなところで、中学生くらいの子たちが円になって童謡を歌っていました。

施設を後にするときには、どこかの教室から呻き声が聞こえました。微笑ましい時間は確かにあるけれど、やっぱりそういう声がいつだって漏れる場所なのだと思い、どうしたって陰鬱な気持ちになります。施設では親切な職員の方が長男の様子を教えてくれますし、長男と会って、成長を感じると(身体的な面が大きいですが)やっぱり嬉しい。けれど、どうしても下を向いて、なんならいつも泣きながら帰っている。どうか自分の子供にも、その他の障害児にも、冷たい眼差しだけでなく、優しくしてもらえる場をひとつでも多く持ってほしい。綺麗事ですが、こんなふうに思います。どんなに意志疎通の出来ない子供であっても、訝しげに見つめられているところを見るのは、やっぱり堪えます。どんなに辛くとも、我が子なんです。


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