リハビリ

はじめに

これは自己満足的な消化行為だ。

TLやネット、身の回りで見つけた意見を、自分なりに解釈して、くっつけて、考えを整理しただけのNoteである。

他の人との考えの相違、自分の間違いがあるかもしれないが、それは事実であって真実ではない。

コメントを投げてもらえると嬉しいが、それに納得できない自分がいた場合は記事に注釈をつけることすらしないかもしれない。


精神的に余裕があるときに、アウトプットのリハビリをしないと、何も出力できない人間になりかねない。


公開しないと気が狂いそうだが、読んでもらいたいわけでは無いので、この前書きを読んで嫌な気持ちになったら読まないでほしい。


本編

子供のころからよく聞いたことのある、「昔はよかった」という言葉にに、最近になって納得を得た。

「よかった」「昔」とは、時代や世代のコンテンツではなく、過去の個人の状態そのものである、ということだ。


飲み屋で知らないサラリーマンが言っていた「幸せではなくなったのではなく、不幸が迫ってきている」という言葉が恐ろしく感じる。

《社会》が、《社会》から逸脱した人間に対して「不幸というラベル」を張るのだ。


《社会》では、個人のリソースは年を重ねるにつれ「《社会》に貢献する」為に消費されるように変化する。

すると、そこにあった「幸せを享受する」為のリソースが失われてしまうのだ。


補填リソースは基本的に「《社会》的成功」でしか獲得し得ない。

しかし、このリソース補填は難しいものである。

それは「圧倒的な経済力」かもしれないし、「《社会》的立場」かもしれないし、「新たな家庭」かもしれない。

いずれの場合も努力に加え、時と運が必要だ。

そのくせ、補填できない場合はリソース不足で「不幸が迫って」来る。


この常識を踏まえると、《社会》から見て「成功」していない人間が、「自分は幸せだ」と嘯いているのを見た時に「可哀想な奴だ」と認識してしまう。

責任を果たし、《社会》で生活していながら苦労しても成功できず、リソースを削りながら生きているものにとって、

成功をしていないのにもかかわらず、幸せを享受するリソースをキープしている人間を認められない。

そこにたゆまぬ努力があったとしても、そこから目を背けてしまう。


日本人は「他人の幸せを目の前で見る事を受け入れ辛い」という厭味ったらしい特性を持っているらしい。

(マジックミラー越しに100万受け取る光景を100円払って止めるかどうか、の実験で、日本人は100円払いがち、というエピソードを見たことがある、ソースが無い、最後通牒ゲーム?)


つまり、本人は不幸ではないのに、「お前は不幸だ、本当の幸せを知らないのだ」という同調圧力をもってして、たとえ自分が不幸になったとしても個人の認識に介入してくる。

そこに当人がどう思うかは介在しない。

結果、本人は不幸でも何でもないのに「不幸」ということにされてしまうのだ。


少しは無しがずれるが、今この駄文に時間を割いているのも上記構図に似通っているかもしれない。

自分が考えを整理したらこういったネガティブなことになった、という事を公表することで、他人がこれを読んで同じプロセスでネガティブになるかもな、という考えが少しある。

唾棄すべき思考だが、そういった考えがあることを否めない。

前書きを作って一部読者がブラウザバックすることや、この思考プロセスは穴だらけで正しくない!と誰かが断じることを祈る自分もいるのが非常にたちが悪い。

もし指摘を受けたとしても、認められないかもしれない、という恐怖すらある。


閑話休題。

この問題の影響はこれは世界における日本の幸福度ランキングにも表れているようにも思う。

GDPと比較して、幸福度ランキングが相対的に低いのは、日本人の民族特性に起因する《社会》に対する貢献圧力が一因では、ということだ。


【日本人は働きすぎで、有給も取ることに拒否感があり、長期休暇もなかなか取らない。】


これは日本人がよく言われるテンプレート的批判だが、自論に基づくと理由にも説明がつく。

【働きすぎる】のにそれが《社会貢献》だからやめられない。

【有給を取ることに拒否感がある】【長期休暇もなかなかとらない】のは《社会貢献度を削る行為》だから休暇は取りづらい。

《社会》的に貢献度が上がる行為を行わないと《社会》に貢献していない「不幸な奴」になるのだから、《社会》貢献した方が「不幸」で無い分まだましなわけだ。

また、他人が休みを取ることで幸せになることを受け入れづらい、というのもあるのかもしれない。


考えを整理していて、この構図によく似たものを思い出した。

本音と建前である。

建前が「不幸」とラベリングされる事を忌避した結果、本音の部分で不幸を抱える事になっている。

また、建前上相手の幸せを願いながら、その実相手が幸せになることを望んでいない。


 「知ることとは死ぬことなんだ」

 神様のメモ帳 : アリス


「不幸というラベル」を知ってしまった故に、そこから逃れる為に不幸になっている今を憂いたのが「昔はよかった」という言葉なのである。

知らなかった自分はすでに死んだのだ。


「今がいい」と言えるようになる為にはどうすればよいか?

他人から貼られた「不幸というラベル」と「思い出補正」を無視できるだけの、自分の中での圧倒的な幸せが必要だ。


困ったことに、幸せを享受するリソースを確保する為には、何かしら別のリソースを削る必要がある。

リソースは有限だ。使えるものは限られる。

《社会》的な成功を求める為に使っていたリソースを、一部自分の納得できる幸せを享受するリソースに切り替えなければならない。

しかし、これは「不幸」だ。


幸せを求める為に「不幸」を受け入れなければならない。


困ったことに、《社会》が提示する一般的な幸せは説得力がある。

自分はこうだ、と言い切る為には振り切らなければならない。

そうでないと、その説得力を上回る納得を自分で得ることが出来ない


さらに悪いことに、人間が年を重ねるほど、《社会》が自分に要求する《社会》貢献リソースは増大する。

そのくせ幸せを求めてリソースをそちらに割くと、ジャックポットを引かない限り最大リソースは増えないのである。


つまり解なしである。


最後に中学時代の自分の言葉をメモとして残し、再度自分への楔として打ち込んでこの駄文を〆る。

当時はただ勉強から忌避する為だけについた詭弁だったはずなのに、自分はこの言葉に囚われている。


「たとえ必死に勉強をして成績を上げて、良い高校、大学へ進学し、社会人になれるとしても、今は楽しくない。

 今をつまらないと思って生活することは、果たして『生きている』と言えるか?

 なら、そこまでいい学校に行けなかったとしても、人生で一度しかない中学2年の夏を精一杯楽しむ。

 これが生きるってことだと思う。

 大人になった時の1年と、中学生の今の自分の1年じゃ重みが違う。

 それなら、より重い中学生の1年を楽しむべきだ。

 だって今が楽しくなければ、未来だってつまらないと思うから。」


今俺は『生きて』いるか?

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