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天草騒動 「67. 諸将御軍令によって糺明の事」

 さて、北条殿は、二月二十六日に原の城下に着陣し、二十七日から城攻めにかかり、二十八日には完全に落城させて、一揆はことごとく滅亡した。

 去年以来の大騒動や手強い逆徒が、安房守殿が下着してから三日間で平定されたのは、ひとえに軍学の徳によるものであった。まことに、万卒は得やすく一将は求め難しとは、このようなことを言うのであろう。

 この乱が終わり、北條安房守殿が江戸表に戻られてから、世の人々は初めて軍学の重要性を知ったということである。

 さて、松平伊豆守殿、戸田左門殿、諸大名、諸役人は、残らず高久の城に召し集められた。

 伊豆守殿が、

「このたびの賊乱について、それがしが身不肖ながら征討使を仰せ付けられたのだから、総軍への下知は私事ではなく、かたじけなくも将軍家の上意同然である。

そもそも、百姓一揆の城攻めに板倉殿をはじめとして諸家の歴々の功臣が多数討ち死にを遂げた事は、残念至極な事ゆえ、城攻めは固く禁じて敵城の兵糧が尽きるのを待っていた。

そうしたところ、このたび城攻めされたのは、まさしく軍令違反というもので、将軍家の御下知に違背するも同然である。どの勢が最初に御軍令を破られたのか承って、それを江戸表に申し上げ、御下知を待つことに致す。」

と、申された。

 細川、黒田、有馬の諸侯をはじめとして誰もが、「鍋島甲斐守の軍勢が城攻めを始めたため、きっと御下知があったのであろうと思って、遅れてはならないと攻めかかったのです。」と、口を揃えて申されたので、伊豆守殿は鍋島甲斐守殿に向かって、「貴殿は若いゆえか、粗忽千万」とおっしゃった。

 それを聞いている父の鍋島信濃守殿も気の毒に思われたが、その時、甲斐守殿が、

「百姓どもの一揆に年を越して攻めあぐねて、ほとんど百五十日にも及んでいたのに、のんびりと御軍令を守っていましては、いつ落城するかわかりません。それがしが城攻めを始めたのは、これこそ天下への御奉公と考えております。あなた様ののんびりした御下知には飽き果てました。

とはいえ、それほどの思し召しだったのなら、我が勢は今年も御軍令を守って城攻めを見合わせ、手遅れにすればよかったものをと、残念至極に思われます。

しかし、御軍令を破りましたのは、それがしだけではございますまい。なぜなら、これまでの数回の城攻めの折、『戦いに負けよ。』という御軍令はよもや諸家に下されなかったでございましょう。それなのに、味方が数回の城攻めで敗北したのは、これこそ御軍令を破るも同然です。

それがしは進んで戦い、常に勝ちました。御軍令を破った罪は誰もが同罪でございましょう。

このこと、あなた様に御判断できかねるのならば、江戸表の御沙汰を待ちましょう。もしも再び天下の大事といういくさが起きたら、今度のことがよい手本になります。伊豆守殿のような御下知は決して下されないでしょう。」

と、少しも臆する様子もなく申された。

 伊豆守殿はひどく赤面したが、知恵深い人だったので、そのまま黙っていた。

 やがて、「諸将、おのおの本国へ帰陣すべし。」と申し渡され、この趣きをさっそく江戸表に注進した。

 また、天草島は百姓が一人残らず亡んでことごとく荒地になったため、伊豆守殿が下知して、豊後府中の御代官の牧野伝蔵殿を天草の御郡代にし、寺沢家の家老の三宅藤右衛門に在番を仰せ付けられ、唐津領以外の他領の百姓に賦役を課して、城、城下の家、陣屋などを取り払わせ、一揆の死骸を穴に埋めさせた。

 また、寺澤、松倉両侯には、供廻りを少々召し連れて、早々に江戸表に下向せよとのお達しがあった。

 それから征討使と御目付衆は長崎に参られ、切支丹宗を固く御制禁になった。

 あれこれ指示した後、急いで大阪へ船で向かわれた。前もって御目付を通じて伊豆守殿から江戸表に委細言上してあったので、江戸表から大阪に御奉書が届き、「鍋島信濃守父子三人は、征討使の下知に背いて御法令を破った罪により閉門申し付ける。」とのお達しであった。

 信濃守殿は、
「このごろの伊豆守殿は何を考えているのかわからず、天下の御下知とも思えない。このたびの甲斐守の働きは諸将の中で抜きん出ており、粉骨を尽くして働いて、出丸をはじめ詰めの城までことごとく一番乗りを果たした。それなのにその戦功は評価されず、かえって閉門を仰せ付けられるとは、まったく理解できない。」と、憤られた。

 まったくそのとおりであった。このことは誰言うとなく西国全体に流布し、人々はさまざまに噂しあった。


68. 大団円の事

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