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天草騒動 「65. 渡邊四郎大夫最期の事」

 さて、一揆の巨魁、四郎大夫時貞は、伯父の甚兵衛をはじめとする一揆五十人をしたがえて、天主でうすの旗を一流ひるがえして、蘆塚、大矢野の後に続いて寄せ手に突っ込んでいった。

 それを見て寺澤の家老の三宅藤右衛門は、「討ち洩らされた一揆などたいしたことはない。」と自分が先頭に立って渡り合い、細川家の大軍も四方八方から取り囲んで揉み立てた。

 しかし、四郎大夫をはじめとして全員死を覚悟していたので、打っても斬っても事ともせず、八方に薙ぎ立て薙ぎ立て切り結んだ。

 そうは言っても目に余る大軍が相手だったので、今となっては逃れようもなく、伯父の甚兵衛は四郎大夫に、
「このような大軍に取り囲まれては、とても戦いようがありません。何とかしてこの場を切り抜けて、荒神ヶ洞に入って快く自害致しましょう。」と、勧めた。

 四郎大夫もそれに同意し、「それっ、切り破れっ」と下知した。

 それにしたがって一揆どもが寄せ手の軍勢を突破しようとしたが、鍋島信濃守殿は彼方から遥かにこの様子を見て、「一揆の巨魁と見た。逃すなっ」と後ろの方から全軍で一斉に押し包んで攻めたてた。

 一揆どもは仕方なく細川家の軍勢に向かって戦ったが、前からは越中守殿の旗本千人余りが槍先を揃えて突きかかり、後ろからは鍋島家の軍勢が取り囲んで微塵になれと攻めたてたので、一人も残らず乱戦の中で討ち死にした。

 細川家は首二十三級、鍋島家は首十九級を討ち取った。渡邊四郎大夫と天草甚兵衛の生死は知れなかったが、後に首実検の時、四郎大夫時貞の首は細川家の家臣の佐々木右衛門が討ち取った首であることが判明した。


 ある書物には、この時の事が次のように述べられている。

 城内の兵糧が尽きておおいに弱っている様子なのを察して松平伊豆守殿が、「今こそ良い時期だ。攻め込め。」と下知されたので、細川家の老職の長岡帯刀が一番に乗り込み、当たるを幸い突き立て突き立て薙ぎ回るうちに、城兵のほとんどが討ち取られた。

 大将の四郎大夫を討ち取ろうとなおも東西に走り回ったところ、四郎は白い石で築いた高さ一丈ほどの壇の上に立ち、天に向かって何かの呪文を唱えた。すると空中から黒雲が降りてきて辺りが暗くなった。

 四郎がその雲の中に入りかかった時、どこからか白羽の矢が一筋飛んできてその雲の中に吸い込まれたかと思うと、雲はたちまちのうちに消え失せた。

 四郎も今は為す術もなく茫然として立っていたが、そこに帯刀の配下の者が駆け寄って、かけ声と共に槍を差し伸べ、ただ一突きに突き殺した。


 時に寛永十五年二月二十七日、暁から攻めかかり、翌二十八日未の刻に完全に落城した。

 落城に際してこのように手強い戦いがあったのは、歴々の武士もののふの籠城戦でも古今稀である。まして百姓一揆では唯一の例であり、まことに珍事といえよう。

 この一揆が始まったのは去年の八月十一日であるから、今日まで七カ月、日数にして二百日に及び、籠城は去年の八月十五日から落城までおよそ百三十日にわたっている。

 西国の諸侯方の軍勢、総勢十七万騎余りを引き受けて数度の戦いに勝利をおさめ、日本全国の人心を恐れおののかせたことは、前代未聞の事であった。

 戦いが終わって御役人方が吟味のために荒神ヶ洞の中に入って見ると、米十石、大豆三石、味噌十樽ほどが残されていた。これは、兵糧が尽きて狂い死にしたなどと後世に卑しめられる事を恥じて、このようにしておいたのであろうか。

 洞穴の中はきれいに掃除してあり、奥の方に仏壇があった。仏壇の中には阿弥陀三尊像が掛けてあり、卓の上には三具足みつぐそく(訳注 仏前に供える香炉、花瓶けびょう、燭台の三点セット)と阿弥陀経一巻が置かれていた。したがって、まったくの耶蘇宗門でもなかったようである。

 また、厚い帳面が三冊あり、上書きには蘆塚忠右衛門裁判と書かれていた。去年の八月十一日に一揆が起こった原因から始まって、合戦の経緯、武功、手柄、軍略、あるいは兵糧、矢数、弾薬、その他人数の割り当ての日記に至るまで、こと細かに記されていた。

 巨魁の四郎大夫がいたと思われる場所は一段高くしつらえられており、立派な衣装や手道具類までことごとく揃えられていた。このことから心がけも賎しからぬ者であることがわかった。

 その後、落城跡を取り片付けることになった。

 全軍ひとまず山を下ることになり、諸大将は山上を引き払って高久の城に入られた。また、征討使の下知にしたがって、陣営をことごとく取り払い、生け捕りと討ち取った首級については後日糾明することになり、とりあえず近郷の百姓どもを呼び寄せて近辺の掃除をさせ、山の上の死骸はすべて谷底に落として捨て、雑人どもの死骸は穴を掘って埋めさせた。

 完全に平定した旨の注進を江戸表に送ったので、「北条殿が発向してから日をおかずに落城させられたのは、ひとえに北条殿の軍略によるところであろう。」と、人々は賞賛した。

 伊豆守殿がこれまでの戦いの手負い、死人の数をそれぞれの軍勢に調査させたところ、全軍で討死は八千人余り、そのうち武士は千三百人余り、雑兵は六千七百人余りであった。手負いを合わせると一万人余りであった。

 また、城内の人数は全部で男女合わせて四万三千人余り、そのうち頭分の者は十二人であった。

 今度の落城の際に討ち取った一揆の首の数は一万零六百級余り、その他は去年以来の合戦で討たれたり、病死したり、あるいは二十七日に焼死したり、谷底へ投げ落とされたりした者で、残る者なく完全に滅び去った。

 その後、原の城は破却されてもとの荒涼たる原野となり、滅亡した一揆の名のみが残された。

 この城跡では、毎年二月二十八日には、一天かき曇り、風が吹き荒れて山谷鳴動し、海上は波が高く、あちこちに鬼火が燃え上がって女子供の泣き叫ぶ声が哀れに聞こえてきたり、合戦のときの声が聞こえてくるため、その日は往来にも人が絶えてもの凄いありさまであるという。そこで、心ある人々は死者の供養をすることもあると聞いている。


66. 山田右衛門助命の事

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