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天草騒動 「37. 原の城、大合戦の事」

 さて、有馬中務大輔殿は自分の陣所で、「きのう夜討ちを勧めて諸将が戦ったが、有馬家は特に戦功もなく残念の至りである」と言い、ことに若年の黒田頼母の意見のことも気にさわって、どうしてもこのままでは済ますことができず、「どんなはかりごとをもってすれば、速やかに城を落とせるだろうか。奇計があれば遠慮せずに言ってほしい」と、言った。

 そこで有馬左衛門佐殿が、

「およそ兵法はじつをもってその虚を打つといいます。これが必勝の計略です。ひそかに城中の様子を窺ったところ、数回の勝利で将士はおごり、士卒には怠惰な心が生じているようです。

水の手曲輪にはそれほど兵士がたくさんいるように見えませんから、この虚に乗じて夜中にひそかに押し寄せ、夜の明けるのを待って襲えば味方の勝利は間違いありません。そこから付け入って城の曲輪をだんだんと攻め落として、有馬家だけの武功にしましょう」と、申し上げた。

 それを聞いて家老の有馬壱岐が、

「この城を攻め落とせれば大功ですが、もしも負けた時は天下の笑い物です。今回の城攻めで先頭に立って戦うべきは寺澤侯、松倉侯の御両家で、他の者にとっては特に戦うべき敵ではありません。それなのに有馬家だけが暴虎ぼうこ馮河ひょうがの勇を振るう必要がありましょうか。」と、言葉をつくして止めた。

 しかし、傍若無人に聞き入れず、一同はかえって左衛門佐殿の計略をよしとして、明日の早朝に城攻めということに決まった。そして、有馬家の勢一万五千人余りが、他家には知らせず、ひそかに攻撃の準備を整えた。

 自分一人で戦功をあげようと考えたのが有馬侯の失策のもとで、ただ百姓一揆とばかり思い込んで城方に知勇の士がいるのを知らなかったことから起こったことである。

 すべて山城は、水の手がもっとも重要である。水が大量に湧き出ない山には城を築くことはできない。もっとも、高山や岩山には必ず水が湧き出ている場所があるものだが、飲み水はもちろん馬を洗う水や人夫の行水に至るまでおびただしく必要なので、一か所ぐらいでは間に合わない。

 そこでこの原城では、谷間の端の広い場所を掘り、そこに山から滴ってきた水をためて池にし、周囲に堤を築いてあった。その形が自然と扇の形になっていたので、扇の縄手と名付けられていた。

 城内では軍師の蘆塚忠右衛門が常に水の手に注意を払っていたが、今夜の勝ちいくさに安心して城兵が自然と油断することもあろうかと、その日は自分自身で城内を見回り、怠りなく守備を固めさせて敵陣を窺っていた。

 すると、水の手曲輪の麓から有馬家の勢が不意に攻めかかろうとしている様子だったので、急いでそのことを城兵に知らせて防戦の用意をして待ち受けていた。

 そうとは知らず、有馬家では十一月二十一日の寅の刻(午前四時)頃、先鋒の有馬壱岐、有馬隼人、有馬式部が軍勢三千人をしたがえて攻め登り始めた。

 城内では蘆塚の下知があって前もって覚悟していたことなので、静まり返って待っていた。

 有馬中務大輔殿の旗本から、「思ったとおり敵は油断している。一斉に踏み込め。」との下知があり、皆ひしひしと塀際に登りつめ、今にも城に乗り込みそうに見えた。

 ちょうどその頃、次第に夜が明けてきて、朝日に輝く旗指物がとても華々しく見えるようになった。

 麓の軍勢はそれを見て、「あっ、有馬家が抜け駆けして城攻めをしているぞ。遅れるなっ、者ども」と、旗指物をかかげた。

 しかし、これを聞いた板倉殿が、
「有馬家の軍勢は昨夜の戦いの際にとり残されて、山の中で夜を明かしたのであろう。たとえ一騎でも出てはいけない。しばらく様子を見よ。」と厳しく下知した。そのため、諸将は戦いの準備をして動静を見守った。

 さて、有馬家の先鋒が旗を進めて今にも水の手、扇の縄手に乗り込もうとした時、帯曲輪の木戸をさっと開いて、千々輪五郎左衛門が黒糸縅くろいとおどしの鎧に御幣ごへい指物さしものを差して大身おおみの槍を引っ提げ、屈強な一揆の者を選んでしたがえ、鬨の声をあげて討って出た。

 また左の林の中からは、大矢野作左衛門が紺糸縅の鎧を着て、兜は脱いで乱髪になり、鬼神のような勢いで三百人をしたがえて押し出した。

 それに続いて、蘆塚忠右衛門が白髪に鉢巻きをして、これも三百人余りを率いて喚声をあげながら討って出て、吊した針にも命中させることのできる天草の猟師どもを先に進めて、筒先を揃えてどっと鉄砲を撃ち出した。

 たまらず寄せ手が乱れたったので、有馬壱岐が「鉄砲を撃てっ」と大音声で下知したが、有馬家の軍勢は谷間の道にいて進退が自由にならず、不案内な土地でもあったので、ただ周章狼狽するばかりだった。

 これに対して一揆方は日頃山谷を狩猟してまわっていたので道をよく知っており、あちこちから鬨の声をあげて鉄砲を撃ちかけた。城内でも味方に勢いをつけようと二万人余りが城外の軍勢と一緒になって鬨の声をあげたので、その響きが山谷にこだまして言いようもなく凄まじかった。

 その時、蘆塚忠右衛門、千々輪五郎左衛門、大矢野作左衛門らが三方から槍先を揃えて突きかかったので、有馬家の勢はおおいにうろたえ騒いだ。そこを屈強の勇士三四十人ばかりが突き立てて谷に追い落とした。

 有馬家の足軽頭の長岡七郎大夫が、「今はもう逃れ難い。踏みとどまって討ち死にせよ。」と下知したが、有馬家の軍勢は、麓から味方の兵士が押し登ってくるのを敵と見間違ってあわてふためき、度を失い、道のない谷に転落して三百人余りが死亡した。哀れだが、また笑止なことでもあった。

 一揆方はこのありさまを見て、ますます勢いを得て追い討ちした。この勝利は蘆塚の軍慮の深さによるものであろう。

 すでに有馬家の軍勢が散乱したのを見て、長岡七郎大夫は地団駄を踏み、「臆病者めらが。こうなってしまっては大将が逃げ遅れてはいけません。早く退いてください。」と言って、自分は真っ先に踏みとどまった。

 同じ志を持つ勇士十一人が、獅子が荒れ狂ったように切り立て薙ぎ立て、駆け回りながら敵をくいとめて戦った。

 そこに大矢野が走ってきて長岡をめがけて突きかかったので、長岡はそれを引き受けて、受け流し、突っ払い、火花を散らして戦った。しかし大矢野は音に聞こえた剛勇だったので、長岡の槍を跳ね上げて、とうとう咽輪のどわのあたりを貫き通して首をあげた。

 ここで防戦していた十一人の兵士を追い詰めて全員谷底へ突き落とし、有馬家の本陣まで攻め込もうと勇みに勇んで駆けて行ったところ、坂の下に有馬殿が踏みとどまり、采配を振るって、「きたなき味方のありさまよ。進め、退くな」と、大音声で下知していた。

 それを聞いて長崎大次郎、佐野三郎右衛門、尾崎宇八、正木清左衛門をはじめとして恥を知る者ども三十人余りが坂の口をふさいで、追って来る敵を防いだ。

 しかし一揆勢は大軍だったので、一揉みに揉み破ろうと千余人の軍勢が有馬壱岐の陣に突っ込み、大波が押し寄せるように攻めてかかった。壱岐は覚悟を決めていたので、ただ一騎で真っ先に討ってかかり、たちまち四五騎を突き伏せた。

 そこで蘆塚の下知によって、一揆の頭分の鉄砲の名人、駒木根八兵衛が樹木の陰から十匁筒で狙いをすまし、有馬壱岐の胸元へ血煙をたてて鉄砲を撃ちこんだ

 これに勢いを得て、一揆どもがどっと鬨の声をあげて押しかけたので、有馬の家臣の佐野、尾崎、正木、長崎らが踏みとどまり、十二三人が枕をそろえてその場所で討ち死にした。残りの者は一揆に追い立てられ、谷底に落ちて敗北した。

 蘆塚、千々輪、大矢野の面々は城内の兵士に合図し、「鉄砲三百挺と屈強の者に槍を持たせ、堂島対馬に歩卒を指揮させ、騎馬の頭分三十人は細谷口から鬨の声をあげて討って出よ」と、下知した。

 一揆の者らは密集隊形をつくって山を下り、思いがけないところから有馬家の勢に近付いて鉄砲を撃ちかけながら押し寄せたので、寄せ手はおおいに驚いて我先に逃げまどった。一揆はますます急追したので陣所にもとどまることができず、完全な敗北となった。

 大矢野は板倉殿の本陣めがけて真一文字に押しかけたが、それを黒田右衛門佐殿が見て、「あっ、一揆め推参なり。本陣を打ち破られたら大変なことになる。何としてもここでくいとめろ」と叫んで、自分自身が真っ先に馬で乗り出した。

 それを見て寄せ手の二万五千人の軍兵がむらむらと立ちふさがって板倉殿の本陣を守ったが、一揆どもは密集隊形になって鉄砲を撃ちかけながら無理矢理打ち破ろうとした。

 その時、黒田頼母が足軽に鉄砲を撃たせて、「進め、進め」と下知した。また立花飛騨守殿は軍兵を繰り出して、一揆を追い払おうと敵の背後にまわった。寺澤と松倉の両侯も、「この時期を失してはならない」と後ろにまわった。また、小笠原家は横合いから取り囲んで討ち取ろうとした。

 蘆塚、千々輪、大矢野の三人は一か所に集まって、「このように城を離れて戦って大軍に道を塞がれては退却する機会を失ってしまう。今のうちに一方を切り破って早く城へ戻ろう。きっと城内も油断はしていないだろう」と、話し合った。

 ちょうどその時、城内で二万人余りが一斉に鬨の声をあげ、旗の手をひるがえして今にも討って出るような様子をみせた。これは城兵がよく軍令を守って、初めに打ち合わせしておいたとおりの行動をとったのである。

 それを見て、一揆の千人余りの勢は寺澤、松倉両家の陣に打ってかかった。寺澤、松倉両家の兵士はこれまでに一揆の勇猛さを知っていたので、臆病神にとりつかれてどっと崩れて敗走した。

 それを見すまして、大矢野作左衛門が真っ先に進んで鎌槍を振り回して追い立て、それに続いて一揆どもが百挺余りの鉄砲を撃ちかけた。

 松倉侯の家老の松倉重兵衛が真っ先に敗走したが、その時、寺澤侯の家老の三宅藤右衛門がたった一人で踏みとどまり、夜叉が荒れ狂うように大薙刀を振り回して、たちまちのうちに一揆四五人を撫で切りにした。

 大矢野作左衛門はこれを見て、「いざいざ我が手にかけて最期をとげさせてくれよう」と、大身おおみの槍で渡り合った。互いに秘術を尽くして戦ったが、どちらも優劣つけ難い達人だったので、勝負はなかなかつかなかった。

 蘆塚が激しく下知したので一揆は必死になって戦い、とうとう寺澤、松倉両侯の軍兵はさんざんに切り立てられて四方へ敗走していった。一揆もだんだんと城に繰り引きに退いていった。

 大矢野は三宅藤右衛門との戦いの最中に味方がだんだん引き上げていくのを見て、これで最後だと槍を突き出した。その槍先が三宅の膝にあたり、屈伸の急所なので三宅はたまらずどっと尻餅をついた。ところが、倒れながら投げつけた槍が作左衛門の太股を貫いてしまった。作左衛門はそれをことともせず、そのまま馬の向きを変えて城に引き返していった。

 それを見て背後から黒田家の勢が鉄砲を撃ちかけたが、大矢野は馬術の達人だったのでとうとう大勢の一揆の中に駆け入って、密集隊形をつくって引き上げていった。天晴れな勇士であった。

 その後、城兵は木戸を閉じ、勝鬨をあげて厳重に守備を固めた。

 この戦いは十一月二十一日の夜から始まったが、寄せ手の手負いと討死は、二十二日までに、有馬家では有馬壱岐と長岡七郎大夫のほかに兵士や雑兵を合わせて六百人余り、黒田家は三百人余り、寺沢家は百人余り、松倉家は三百人余り、その他かれこれ合わせて千五百人余りであった。

 このように二回目の攻撃も失敗に終わったので、板倉殿が諸軍を集めて評議し、

「諸家の主だった家臣が一揆どものために討ち死にしたのはもってのほか。一揆は死を覚悟しているので、すぐに落城させるのは難しい。今後は下知の無いうちに城を攻めることは厳禁する。今この城にこもっている一揆は男女合わせておよそ四万人あまりに及ぶと聞いているので、天草領の食料を残らず集めても兵糧に限りがあろう。このうえは城を取巻き、水も漏らさず取り囲むように。」と厳しい軍令を発して、それぞれの陣屋を守らせた。

 城内では再び勝利を得て、ますます固く木戸口を守って静まり返っていた。

 戦いがいつ終わるのか、予想もつかない情勢となった。


第4章 籠城戦へ

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