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天草騒動 「54. 千々輪五郎左衛門力量の事」

 そこに長岡の次男の万作がずかずかと出て来て、「この橋の一番乗り、長岡万作なりっ」と言いながら千々輪に近付き、むんずと組み付いた。

 千々輪は、「こしゃくな小せがれめ」と、万作の鎧の上帯を取って、橋の中程から寄せ手の方に投げ返した。

 万作は投げられながら立ち直って、「これは心得難いふるまい。尋常に勝負しろ。」と言って再び飛びかかろうとした。

 千々輪はそれを見て、「まだ若輩ながら、武勇の者のようだ。討ち取るには忍びないから助けてくれよう。」と言いながら、跳ね橋をえいやっと持ち上げて投げつけ、二の丸に渡る道を断ってしまった。その力は凄まじいものであった。

 この跳ね橋は数人がかりでも容易には動かせなかったのに、千々輪が一人で投げ飛ばしたのを見て人々は皆驚きあきれた。

 その後、城兵はただちに城門を閉ざし、狭間に人を配して持ちこたえた。

 大手の先鋒は九曜の紋の旗を山風にひるがえして、「一番乗りは細川家なり。」と呼ばわった。これは、鍋島甲斐守殿が一番乗りしてから半時ばかり遅かったが、「すべて長岡監物の老巧と武勇のなすところだ。」と、人々は誉め讃えたという。

 さて、黒田右衛門佐忠之殿は、細川家の軍勢が曲輪に押し入ったのを見てひどく腹を立て、「監物と頼母が討ち死にしたために先頭に立って進む者が無く、細川家に先を越されてしまったのは残念至極。三左衛門はいないのか。」と言った。

 黒田三左衛門と黒田主税(原注:この三左衛門は頼母の養父で一族の長老である。主税は頼母の弟である。この時は十七歳で、後に美作と称した)の両人が、「はっ」と答えて駆けつけ、一揆の中に突き入って戦う間に、黒田家の軍勢が塀の間際に押し寄せた。

 一揆どもはここを先途せんどと防戦したが、全員飢え疲れていたうえに武具も壊れ弾薬も使い果してしまっており、そのうえ頼みきっていた千々輪は細川家の軍勢と戦っていてこの場に居あわせなかったので、ひどく乱れたってしまい、今はもはや防ぐ手立ても尽きて、ただあわてて右往左往するばかりだった。

 首領格の者たちも手をつけかねていたところに、黒田三左衛門と黒田主税の両人が群がる一揆を突き立てながら、駆けまわって戦った。

 また、立花家の老臣の小野和泉と小野掃部かもんが一緒になって下知しながら、互いに励まし合って進んだため、一揆の者らはいよいよ崩れ立って惣曲輪に逃げ込み、二三の丸になだれかかった。

 寄せ手がそのまま付け入って乗り込みそうになっているのを千々輪が聞いて、物頭の布津村代右衛門を呼び寄せ、
「相手は名にし負う黒田の大軍だから、きっと勇猛な戦いぶりをするだろう。味方が不利な時は徐々に二三の丸に退かせよ。その際、貴殿は外曲輪に討って出て、決死の一戦を遂げてほしい。私が必ず救出しよう。もしも私が間に合わなかった時は大矢野が救いに行く。」と言いつけて、千々輪は平草山に討って出た。

 そこで布津村、柏瀬、および有馬久兵衛(休意の子である)は槍を引っ掴んで馬を走らせ、必死になって防戦した。中でも布津村は勇を振るって戦ったので、その勢いは当たり難く、さすがの黒田勢も攻めあぐんで立ち止まってしまった。


55. 黒田家惣曲輪一番乗りの事

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