天草騒動 「59. 千々輪五郎左衛門討死の事」
千々輪五郎左衛門は一騎当千の勇士であったが、惜しいことに方向を間違えて逆徒の頭分になってしまったのは残念なことである。
さて、千々輪は鍋島家の軍勢を追い出して一息ついたあと、再び一揆百人余りをしたがえて、出丸にたむろしている寄せ手を追い立てようと、先頭に立って戦った。しかし、さすがに鍋島家の大軍には恥を知る家臣が多く、岩の屏風を立てたように少しも退かなかった。
一揆の者らはもともと鎧を着ていない者が多く、しかも戦い疲れていたため、皆、力無く討死していった。
甲斐守殿は、さきほどから味方の軍勢が二の丸を追い出されていたが、たった一騎で武者震いをして踏みとどまり、松の木に旗を立てて、近付く一揆を薙ぎ伏せていた。
さらに十人ばかりが群がってきて、「松の下にいる大将を討ち取れ」と立ち向かって行った。本城からも鉄砲を撃ちかけたが甲斐守殿には命中しなかった。一揆の者らが槍先を揃えて突きかかったが、甲斐守殿は少しも怯まず広場に降り立ち、槍をつかんで戦った。
すると不思議なことに、髪を振り乱した女の姿が墨絵のように現れ、甲斐守殿に寄り添って甲斐守殿を守護している様子であった。一揆らはそれを見て、おおいにおののき身震いして、接近することができなくなってしまった。
甲斐守殿は一揆に馳せかかり、追い立てながら六人を突き伏せた。残りの者らは、これはかなわないと四方に逃げ散ったので、甲斐守殿は再び松の木の下に立って、一息いれて休息をとった。
味方の者どもを全員討たれてたった一人となった千々輪五郎左衛門は、「かねて約束したとおり、首は甲斐守殿に渡してやろう。」と心に決めて、甲斐守殿はどこだと尋ねまわりながら二の丸に馳せ入った。
すると、むこうの方に甲斐守殿が勇気凛々と立っているのを見つけ、「うれしいことだ。望みがかなった。」と馬を走らせ、にっこり笑って、「御大将に久々に見参できたからには、千々輪五郎左衛門の手並みのほどをご覧にいれよう。」と言い、手鉾を振り回して突きかかった。
それを見て、甲斐守殿のそばにしたがっていた守役の三左衛門が二人の間に割って入り、「これは推参な下郎。年はとっても三左衛門、これにありっ」と言いながら千々輪に打ってかかった。
大力の五郎左衛門は、それをよけながら腕を伸ばして三左衛門をひっつかみ、目よりも高く差し上げて、えいやっと声をかけて投げつけた。
三左衛門は投げられながらも体勢を整えて立とうとしたが、老年の悲しさで体が自由に動かず、どうっと倒れてそのまましばらく起き上がることができなくなってしまった。
その間に榊原左門殿が馳せてきて、槍を掴んで突いてかかった。それを千々輪はことともせず、手鉾をするどく突き出して、たちまち左門殿の脇腹へ突き込んだ。
これは残念と太刀を抜きかざし、よろめきながら打ってかかるのをよけて、千々輪は甲斐守殿に、「いざ、参る。」と言って暫時戦った。
戦ううちに、だんだん本城の方へ退いて行ったので、甲斐守殿が付け入って進んだが、そこを千々輪は手鉾を投げ捨て、走り寄って組み打ちの勝負に出た。
甲斐守殿は、「心得たり。」とそれに応じ、金剛力を出してお互いに押し合ったが、千々輪は深い所存でもあったのか、わざと仰向けにどうっと倒れたので、甲斐守殿は難なく千々輪を組み敷いた。
千々輪に向かって、
「おまえは敵ながら天晴れな剛勇に感じ入った。最期の際に言い置くことがあれば聞き届けてやろう。」とおっしゃられた。
千々輪は涙を流して、「若大将殿は、健気なお振舞といい、仁有り義有る今のお言葉、心根に徹してありがたいことです。そこで申し上げたいことがあります。しばらく御猶予ください。」と、答えた。
そこで甲斐守殿が千々輪を引き起こすと、千々輪は、
「この城は今日はまだ落ちないでしょう。本城の乾の方角の桧の生えた山に荒神ヶ洞という洞穴があります。一揆方は、明日になって本城が落ちた後、そこに大将の四郎大夫をはじめ屈強の者どもを隠し、不意に打って出て最期の手厳しい一戦をしようと用意しています。このことは、親子兄弟にも深く包み隠していることですが、あなた様の仁義に感じ入って、この密事をお知らせ致します。それがしの末期の言葉ですから、お疑いにならないでください。」と語った。
一揆の間で耳目股肱と頼りにされていた千々輪ほどの者が、甲斐守殿の仁義に感動したからといって、親兄弟にも打ち明けなかったこの荒神ヶ洞隠兵の密事をどうしてあからさまに告げることがあろうか。ここに至ってしゃべってしまったのは、すべて例の乳母の魂魄と以前退治した蛇蝎の精が五郎左衛門の心の中に入り込んだためであって、これこそ瀧の尾明神の加護によるものであろうか。
さて、甲斐守殿は千々輪の話しを聞いて、
「よく密事を知らせてくれた。それに報いるため、もしもあなたに子息でもあったら私の戦功に代えても貰い受けて、末長く家臣としよう。」とお尋ねになった。
さすがの大勇の千々輪も声を曇らせて、
「ああ、ありがたい仰せです。わたしの伜は今年八歳になり、肥後国八代の城下にある法華寺に隠してありますが、逆徒の伜ですから後で必ず成敗されるに違いないと思っていたのに、あなた様の御厚情、いつの世でか御恩に報いましょう。良いようにしていただけるようお願い致します。」と、言った。
甲斐守殿がそれをお聞きになって、「請け合おう。決して心配する必要はない。」と言ったので、千々輪は涙をぬぐい、「もはやこの世に思い残すことはありません。早く首を打って手柄をお立てなさい。」と言って合掌し、題目を数十遍唱えた。
甲斐守殿は涙ながらに首を打ち落として立ち上がり、「一揆方の大将千々輪五郎左衛門を鍋島甲斐守が討ち取ったり。味方の者ども、続け、続けっ」と呼ばわった。
それを聞いて鍋島家の軍勢が我も我もと馳せ集まってきたので、甲斐守殿は激しく鉄砲を撃ちかけさせて、進め進めと押し登り、ついに二の丸を乗っ取った。これは、すべて甲斐守殿の手柄である。
この乱が終わった後、甲斐守殿は、勇士との約束を破るわけにはいかないと千々輪の一子を八代から呼び寄せ、千々輪という苗字ははばかりがあるので住んでいた場所の地名を苗字として原斎宮と名乗らせて家臣にし、知行千石を与えた。まことに、知仁勇の三徳を備えた将とはこのような人のことをいうのであろう。