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スマホ不携帯で家から締め出された話

週末から続いた長男の胃腸炎が治った水曜の朝。私は兄弟を保育園に送り届けた後、在宅勤務のため帰宅した。

車を降りようとしたところで気づく。家の鍵とスマホを家に置いたまま出掛けたことに。そして、すでに夫は出勤し玄関は施錠されていることに。

月曜、火曜と次男の保育園送迎は夫が担当し、私は長男の相手をしながら在宅勤務をしていたため、「朝、ドタバタしながらもスマホと鍵はきちんと持って出かける」のは2日ぶりだ。いや、休日を加えれば4日ぶりか。当然、子ども達の着替えや上履きなど保育園への持ち物も忘れてはいけない。産後、著しくポンコツになった私の脳みそは朝のドタバタに揺さぶられ、4日のブランクで不鮮明になった持ち物リストからスマホと鍵を放り出したのだった。

私は足早にリビングに面する掃き出し窓に向かい、淡い期待を込めてそれを引いた。しかし、掃き出し窓にもばっちり鍵が掛かっていた。ポンコツ脳の私は、頻繁に掃き出し窓の鍵を開けっ放しにしてしまうのだが、しっかり者の夫に叱られるため、最近は注意して施錠を心がけるようにしていたのだ。今日ばかりは己の防犯意識の向上を呪った。

私は、スマホ不携帯で家から締め出された。

腕時計をつけない私は、スマホがないと時間も分からない。慌てて車のエンジンをかけると、時計は8:40を表示していた。今ならまだ間に合う――私はスペアキーを夫からもらうべく、彼の職場方面に車を走らせた。あまり運転は得意ではないが、そうも言っていられない。普段は恐れおののいて使わない、三車線の大きな道路に出て「落ち着け、大丈夫だ、事故ったら話にならない」と独り言ながらハンドルを握った。本当に話にならない。スマホがないのだから、警察への通報や救急車の呼び出しだって不可能だ。
しかし、通勤ラッシュの道は混んでおり、虚しく時は流れ、夫の出勤時間である9時を過ぎた。自分の9時半出勤もすでに怪しい。いっそ車という閉鎖空間から抜けて駆け出したい、と焦る心を押さえながら私はポンコツ脳を必死に整理し、社会人としてまず職場に連絡せねばと判断した。しかしスマホがない。パソコンはもちろん鍵の掛かった家のなかにある。

どうにか渋滞を抜け、死んだ目で車を走らせていると役所の駐車場の入り口に公衆電話を見つけた。この令和の世で公衆電話に出会えるとは何たる幸運。慌てて車を停め、警備員に訝しげな顔をされながら電話ボックスに走り、まず夫のスマホに連絡をする。しかし、おそらく「公衆電話」や「非通知」と表示されているであろう着信画面を見て警戒してか、一向に出てくれない。1ヶ月前に転職したばかりの職場の電話番号はスマホに登録したのみで、私のポンコツ脳には記憶されていない。財布に会社から渡された緊急事態発生時用の連絡先カードが入っていたが、これは事故や災害、社用パソコンの紛失などがあった場合のみ使うものである。恥を忍んでダイヤルをし「家から締め出されて所属部署と連絡が取れない、なんとか繋いでもらえないか」と電話口の男性にすがってみたが「そういうのはちょっと」という感じで対応を断られた。そりゃあそうだ。私にとっては重大な「緊急事態発生時」でも、人命の危機や膨大な情報の漏洩に立ち向かう部署の人間に、家に入れず困っているうっかり女を救ってやる暇はないだろう。

一応夫の職場付近まで来ていたが、スマホ不携帯で不馴れな場所をうろつくのにはもうリスクしかない。どこかで電話、もしくはメール送信や会社情報が検索できるパソコンを借りようと、ひとまず自宅に向かって車を走らせた。しかしどこで?コンビニ?交番?朝から必死の形相の女が「電話かパソコン貸してください!」と駆け込んで来たら恐怖じゃないか?何か事件を疑われるかもしれない――。

「電話 借りられる場所」と検索したい、しかしスマホがない、とぐるぐる考えているうちに出勤時刻の9時半を回った。「配属早々、音信不通のしらなみさん」の誕生である。「始末書かなぁクビかなぁ」と呟きながら自宅に辿り着くと、ワーママ仲間のお隣さんちのリビングに明かりがついているではないか。私は息を整えながら車を降りた。

決死のインターホンプッシュ。沈黙。

そして元気な「はーい!」の声――出た!いた!「しらなみです!ちょっとお願い事が!!」と声をかけるとお隣さんはすぐに出てきてくれた。まだ部屋着で、髪には豪快な寝癖も残っていたが、いつもの明るい笑顔である。可愛い姉妹も一緒だ。後で話を聞くと、親子で寝坊して仕事と保育園を休んだそうだ。人の寝坊をこう言ってはなんだが、奇跡である。
状況を説明すると、すぐ家に上げてくれた。お隣さんの心の広さと床暖のあったかさが沁みる。「顔も洗ってない」と笑うお隣さんと、突然来訪しママのスマホを使ってわたわたする私に驚いて号泣する下の子に謝りながら、まずGmailアプリを立ち上げる。私のアカウントでログインを試みたが、セキュリティに阻まれ失敗。どうやら私のスマホに認証コードが届いているようだ。すぐ隣の、無人の自宅に着信音が虚しく響いていると思うとやるせなさ過ぎる。いつも私のアカウントを守ってくれている堅固なセキュリティは敵に回すと辛い。

仕方なく職場の代表電話番号を検索して発信。自分の部署の上長につないでもらった。この時すでに10時。怒られるのか、呆れられるのか、何にせよ電話口の声は負のオーラを含むだろう。そう確信していたのに、上長はまず私の無事を喜んだ。さらに「災難でしたね、今日は欠勤する?」と聞いてくれ、「私もよく家の鍵忘れて、玄関先で家族の帰り待ってますよ」と笑った。なにこの人。好き。一生ついていく。私は転職が大成功したことを確信した。
ひたすら謝り倒し、午後までに何とか帰宅して出勤すると伝えて会社への連絡は無事に完了した。始末書もクビもなく、一気に緊張がほぐれた。次は家の鍵を持つ夫である。再びスマホに電話するも出てくれなかったので、初めて職場に電話した。「いつもお世話になっております、○○の妻です」という、ちょっと言ってみたかった台詞を言えたので良かった。
昼休みに私が鍵を取りに行く、と伝えたが、旦那は「いや、俺が戻る」と言った。何やら立て込んでいるようで、ごちゃごちゃ話すより自分が動いた方が早いということのようだ。それにしたってバカ嫁のために仕事を急遽抜けるとは優しさが過ぎる。やはり怒られるか呆れられるかだと思い込んでいたので、むしろその優しさが怖い。

事件収束の目処がつき、夫が戻るまでの間、私はお隣さんちでまったり過ごさせていただいた。
お姉ちゃんは突然の私の来訪に張り切って、折り紙で「長男くんと次男くんとパパにあげてね」と新幹線やカボチャやおばけを折ってくれた。泣いていた妹ちゃんはいつの間にかすっかり懐いて、私の花柄のワンピースを見て「かわいい~」と褒めてくれたり、「長男くん(のママ)おうちはいれないの?」と心配してくれたり、「だいしゅきー」とハグしてくれたりした。女子可愛い。「ドカーンギャハハハハうんこうんこー!」とオノマトペと汚物を羅列して暴れる我が家の男子とは大違いである。

30分ほどお隣さんと世間話をし、姉妹を愛でていると、自転車に乗った夫が颯爽と現れた。私の謝罪をまあまあと適当に流し、むしろ「俺の確認が足りなかった、すまん」と謝り、玄関の鍵だけ開けると再び職場に戻っていった。少なからず苛立ちをぶつけられるかと身構えていたが、私の足元で「長男くんのパパだー!」とはしゃいでいた可愛い姉妹が場を和ませてくれたのもあってか、穏便に事は済んだ。やはり女子可愛い。

かくして私は子どもらの登園から約3時間を経て、パソコンの前に辿り着いた。なお、スマホはキッチンカウンターの上、鍵は次男がなめ回して放り投げたのか、リビングのすみに転がっていた。スマホはともかく、鍵は忘れて当然である。
とにかく、もう2度と置いていかない。せめてどちらか一方は絶対に持つ。体に内蔵した方が良いかもしれない。


時計としての機能や連絡先の管理、分からないことの検索などなど、いかにスマホに頼りきった生活をしているか、そして、人間最後は結局「人」に救われると痛感した、慌ただしい秋の朝であった。上長に感謝しながら働き、週末はお隣さんにお礼のお菓子でも買おうと考えながら、私はパソコンの電源を入れた。

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