「花街の剣の舞姫」第七話

 雨曇りが去り、体調もすっかり元通りに戻った桃花は、与えられた部屋の中で黒い扇子を手に緩やかな動作で舞っていた。
「一週間は安静に」と侍医に言われ、剣を持つことを禁止されていた。黙って寝台に横になっていては体がなまってしまいそうで、密かに扇舞をしていたのだ。

 毒を盛られた、と桃真が苦々しい表情で教えてくれた。まぁそうだろうな、と思っていたので特に驚きはしなかった。
 毒を盛ったのは、玲香だった。
 嫌われていた自覚がある。何かしたわけではないが、話しかけてくる口調も、向けられる視線も厳しかった。

 医局から持ち出せる薬の量は制限がされている。
 医官が直接処方するならば別だが、そうでなければ帳簿に所属と名前、薬の用途を書かねばならない。医局で付けている持ち出し管理台帳には、数日に渡って紅山草を求める玲香の名前が記されていた。

「桃花」

 パチンと扇子を閉じ、伏せた目を持ち上げる。
 笑みを浮かべていない桃真が、入口の柱に背をもたれてこちらを見ていた。怒られるかも、という思いとは裏腹に、声を潜めた桃真は緩やかに室内へと入ってきた。

「剣舞とはまた違った雰囲気だ」
「……滅多にしないから、体に馴染んでないんです。あの……ごめんなさい、」
「自覚があるのは良いことだよ。さぁ、寝台にお戻り」

 するりと手を取られて促される。下手に怒られるより、ずっと気まずかった。桃真は決して声を荒げず、桃花を叱らなかった。どこまでも優しく、穏やかなのだ。
 寝台に腰かけられさせ、桃真に沓を脱がせられる。足首を手のひらが包み、優しく脱がされて、いたたまれない。
 足首をするりと撫でられ、肌が粟立つ感覚に震えた。初めはやめさせようとしていたのだが、強い口調で「君は病人なのだから」と押し切られてしまったのだ。

 桃真の瞳は、とても不思議な感情を映し出している。恋でも愛でもなく、興味でもない。静かな水面に広がる波紋のような、匂いを感じさせない感情だ。
 時折走る激情にハッとさせられるが、あえて気づかないふりをした。

 優しい感情に慣れてしまう自分が怖かった。
 あと一か月と少しすれば花街に戻る身だ。そうすれば、いつも通りの日常が戻ってくる。昼頃に起きて、夜の舞台の準備をして、夜明けとともに眠り、たまに舞の練習をする。
 六畳一間の小さな部屋が、桃花の小さな世界だった。
 桃真も、桜妃も、優しすぎて、ぬるま湯につかっているような心地になる。自由に好きな剣舞を舞い踊ることも、お茶会で好きなだけ月餅を食べることも、本当ならできない贅沢だ。

 光雅楼には育ててもらった恩がある。一夜の舞台で大華と同じほどの額を稼いだとしても、年季が明けるまで十数年もあり、座敷に出て馴染みの客もいない桃花は身請けされて自由になることもない。
 夜の花として、一生を過ごすはずだった。ほんの一時の自由が、桃花の心に迷いを生んだ。

 春桜宮にいると、どこぞのお嬢様やお姫様のような扱いをされて、腹の奥が落ち着かなかった。はじめは湯浴みすら侍女たちが手伝おうとするものだから、必死に拒否したのだ。
 太陽が昇ってから起こされて、眠気まなこで身支度を整え、軽い朝餉を食べ、昼餉まで桜妃にお付き合いをして、たまに王様や桃真とお茶会をして、こんなにのんびりと過ごしてもいいのだろうかと、罪悪感に苛まれるのだ。
 どうしようもなく苦しくなって、特にここ数日はとても苦しかった。胃の奥に汚泥が溜まって、ここにいていいのだろうかと違和感は大きくなっていくばかり。

「桃真様、何度も言ってますけど、わたしはそのようなことをされる身分じゃないんです」
「病み上がりが何を言っているのかな。身分と君はよく言うけれど、そう自分を卑下にするものじゃないよ。君は僕が認めた素晴らしい舞い手なんだから」
「舞い手だから、桃真様はわたしのことを認めてくれているんでしょう?」

 カチと心の奥底に押し込めていた感情が溢れ出す。

「わたしは、舞うことしかできません、舞がなければ、舞えなくなってしまえば、わたしはわたしじゃなくなるんですッ! 今はいい、若くて、それなりに容姿も整っていて、舞台に上がれば金ももらえる。けど! 体が衰え、舞うことができなくなれば内儀様はあっさりとわたしに見切りをつけるだろう! そうすれば、誰ともわからない男に体を売らなければいけない。花街は、そういう世界なんです……」

 蒼い衣を握りしめて、心の奥底に秘めていた言葉を吐き出す。
 口調が乱れるのも気にしないくらいに心がかき乱され、自分がどんなに惨めな存在なのか自覚してしまう。

「わたしは、優しい貴方たちが怖い」

 見返りのない優しさが怖い。損得勘定で生きている人間のほうが、よっぽど信用できる。

 手のひらから滑り落ちた扇子が、軽い音を立てて床に落ちた。
 黒い扇子は広げると、透かし模様が入っており、売れば向こう一か月は暮らしていける高価な品物だ。透かし模様は龍と蓮の花に水紋が描かれている。龍蓮水紋りゅうれんすいもんと言えば、蒼家の掲げる家紋だ。
 気づけば、部屋の中には蒼い小物が増えつつあった。
 たまに見える黄色の簪や帯飾りは、桜妃からの頂き物だ。他にも、燕珠姫にもらった装飾品もある。

 多くの物を持つことが嫌だった。この世に未練があるようで、桃花は身ひとつだけで生きていたかった。

「君が、桃花が思っているほど、世界は狭くない。花街を出ようと思えば出られるはずだよ」
「無理に決まってる。……足抜けしようとした遊女たちを何人も見たけど、みんな失敗して、仕置きをされていた。それにわたしは光雅楼に恩がある。育ててもらった恩が。返しきれない恩があるんだ」
「……僕が、」

 言葉を不自然に区切った桃真を見上げる。拍子に、目尻に溜まった涙がこぼれてた。
 親指がそれを拭って、頬を撫でられる。

「僕が、君を身請けしたいと言ったらいくらになる?」

 真っすぐな瞳だった。不明瞭な色彩が取り払われて、光を受けた瞳は煌々と強い意志を持って輝く。情けない顔をした桃花を映し出している。

 わたしは弱い人間だ。狭い世界でしか生きられない、変化が嫌いで、まるで金魚鉢の仲を泳ぐ金魚と一緒だ。与えられる餌を食べ、観賞用に愛でられるだけの存在。
 無性に与えられる優しさが怖い。人を狂わす恋が怖い。注がれる愛が恐ろしい。
 桃真の抱く感情が、恋なのか愛なのかわからない。わからないから怖かった。

 桃真の言葉に、桃花は返事をすることができなかった。

 * * *

 侍医からの許可も出て、久方ぶりの桜妃とのお茶会だ。
 数人の侍女たちが反物や装飾品を持って、部屋の中を慌ただしく行き来するのを見ながら疑問を口にする。

「何か催し物でもあるんですか?」
「七日後に差し迫った御花園でのお花見よ。以前にも言っていたと思うけれど、桃花さんもぜひ参加しましょうね。そのための衣装合わせよ。私からの贈り物だから、遠慮せず受け取ってちょうだいね」

 煌びやかな装飾品がずらりと並び、一目で上等だとわかる反物に目が眩む。体調は万全なはずなのに眩暈がした。きっと、このうちのひとつだけで家が建つだろう値のするものばかり。
 身の丈にあった服を着たいと思うが、なぜか桜妃や侍女たちはここぞとばかりに桃花を着飾らせたがった。

「……そのお花見では、どんなことが行われるんですか?」

 桜はすっかり緑が混じり、新緑の香りが庭園に満ちている。御花園の桜はまだ見頃が続き、菖蒲や杜若もそろそろ咲き始める頃だ。
 御花園の広場に宴席会場が設けられ、役付きの官吏や武官も出席するいわゆる真昼間からの飲み会だとか。

 飲み会て、と呆れてしまうが、姫や侍女たちにとっては気が抜けない行事のひとつだ。どれだけ美しく、綺麗に姫を着飾れるかは侍女たちの御役目であるし、同時に、婚約者のいない侍女にとっては相手を見つける絶好の機会。
 宮廷お抱えの楽士隊が音楽を奏で、詩を詠み、花を愛でる会であり、十九人全員の姫君が参加し、王を誘惑して気を引く一大行事イベントである。

 桜妃は黄家の姫君というだけあり、用意された反物は黄色系統の色彩が多い。派手過ぎず、地味過ぎない、けれど目を引く装いが妃には求められる。
 侍女たちが桜妃に布を当て、ああでもないこうでもないと言っているのを見ながらお茶を飲んだ。
 花見には三人から六人の侍女を伴っていくため、妃だけでなく侍女たちの衣装選びの場でもあった。天真爛漫な桜妃の影に隠れて普段はおとなしい侍女たちも、どこか楽し気で気分が上がっている様子だ。

 舞衣装は内儀がいつも用意してくれる。用意された衣装を着るだけの桃花は、自分で服を選んだことがなかった。
 少し色味が違うだけで、どれも同じに見えてしまう。何が楽しいんだろうかと、内心で首を傾げていた。

「賑やかだね」

 ひょっこりと顔を出した桃真に侍女たちが頬を染め、ちらりと桃花を見る。意味深な視線にげんなりした。
 決して桃真と目を合わせないように、手持ち無沙汰に簪のひとつを手に取って眺めた。銀に琥珀の珠が連なった簪だが、わたしには似合わないな、と卓子に戻す。

「これが気になるのかい? ……こういう色よりも、君には蒼や寒色系のほうが似合うよ」
「……どうしてもわたしに蒼を身に付けさせたいんですネ」
「僕は君に蒼を名乗ってほしいからね」

 きゃぁ、と甲高い声がして、今度こそ溜め息を吐いた。
 珍しくひとりで来たのか、王の姿は見当たらない。

 なんだかんだで、顔を合わせるのはあの身請け宣言ぶりだ。王が来ることはあっても、桃真がやってくることはなかった。
 変に意識して、ドキドキしていた自分が馬鹿みたいじゃないか。
 とっさに返事ができなくて、「わたしにはわかりかねます」と答えた桃花に、笑みを歪めた表情がいつまでも脳裏に残っている。夢にまで出てきたときは思わず飛び起きてしまい、しばらく寝付くことができなかった。
 どうしてこんなにも悩まなくてはいけないのだと、憤りすら感じている。

 当たり前のように、いつものように、勝手に椅子に腰かけた桃真はにこにことご機嫌な様子。
 呆れを滲ませながらも興味を隠しきれていない桜妃が、扇子の先でその平たい額を小突いた。

「随分ご機嫌なのね」
「えぇ。面倒な仕事は終わったし、桃花に会えたのでね」
「……それで、用もなくここを訪れたわけではないのでしょう? 私というよりも桃花さんにご用事かしら?」

 にっこりと笑みを深めた桃真は、袖口から取り出した細長い小さめの桐箱を卓子に置く。す、と目の前に置かれたそれに、桃花は眉を顰めて色男を見た。

「どうぞ。僕からの贈り物だよ」

 またかと、開けずに突き返したかった。
 桜妃の期待のこもった目に耐えられず、短く息を吐いて箱に手をかける。紐をするりと解き、蓋を持ち上げた。
 ――透ける蒼い華飾りのついた銀の簪だった。
 銀の先に小ぶりの蓮が花開き、花びらはとても薄く蒼みがかった透明で、水面を模した銀細工が吊り下がっている。

「――きれい」

 思わず吐息と感嘆の声を漏らした桃花に、満足気な桃真。

 簪を見た桜妃は、広げた扇子の裏で嘆息する。
 男性から女性へ簪を贈る意味を、少女は知らないのだろう。簪は、鋭い先から武器ともなり、「お前を守る」という意味と、「一生を添い遂げたい」という意味がある。つまるところ、求婚だ。
 蓮の花は蒼家の紋花。蒼色は文字通り蒼家の色。銀細工の水紋は水と自然の美しい蒼州を表している。
 今までの贈り物も蒼色が多めで露骨だったが、ここまではっきりとした表現アピールに元婚約者の桜妃もドン引きだった。しかも本人は初恋で、まともな恋愛経験をしていない。完全に物で釣ろう作戦だ。桃花が簪を贈られる意味を理解していないとわかっていての犯行である。
 桜妃はちらりと控えている侍女頭に目線を送ると、苦笑いが返ってきた。

「これ、いままでの物よりずっと高価なんじゃ」
「気にしなくていいよ。僕から、桃花への贈り物なんだから。……あぁ、ちょうど髪を結わえているね。せっかくだから挿してあげよう」

 桃花は一目で簪を気に入ってしまった。
 白い頬をかすかに赤らめて、目は簪に釘付けだった。しゃら、と銀細工が音を立て、桃真の手で髪に挿される。

「ど、どうですか?」
「ワァ、トッテモ似合ッテイルワ」

 あまりにも嬉しくなって、桜妃を振り返った。棒読み加減が素晴らしかったが、それでも嬉しくなる。

「やっぱり、僕の目に間違いはなかったね。うん、とってもよく似合っているよ。蒼い瞳と、黒髪によく映えている。以前贈った蒼い裳と合わせたらぴったりなんじゃないかな?」
「さすがにそれはダメよ。私が許さないわ。そうね、その簪を付けるなら……その薄藍の反物をちょうだい」

 小柄な侍女が、端の方にあった反物を手に持ってくる。銀の織り込まれた糸で刺繍された蓮の花がきらきらと光を反射している。派手すぎない模様に、これなら、と桃花も妥協した。
 上衣には白を合わせ、清涼感のある装いは季節にもぴったりで桃花に似合うだろう。簪と同系色にすることで全体がまとまり、色合いこそ落ち着いているが銀の刺繍で華やかさが増す。
 どうせなら、黄の同系色でお揃いにしたかったのに、という不満は胸の内にしまいこんだ。

「当日は僕も参加するんだ。それまで、君の服装を楽しみにしているよ」

 きっと、綺麗で可愛らしいだろうね、という甘い言葉に背中がむず痒くなった。

 * * *

 当日は天気に恵まれ、絶好の花見日和となった。
 青い空とは裏腹に、憂鬱な気分の桃花は侍女たちによって好き勝手に着飾られていた。

「簪は蒼様からいただいたひとつだけにしましょう。髪は編み込んで、そうね、少し垂らしてお団子にしましょう」
「肌が白いから、白粉はいらないわねぇ。頬紅を少しだけつけましょうか」
「紅はこっちのほうがいいかしら」
「あら、そっちよりなら、赤みの少ないこれのほうがいいんじゃない?」

 もはや抵抗は諦めた。化粧は自分でやると言ったのに、妙に気分の上がった彼女たちが聞かなかったのだ。

 薄藍の反物で仕立てられた裳は、陽の光にあたるときらきらと銀の花を咲かせ、白い上衣の胸元には小さな青い花が刺繍されている。袖口には非常に珍しい、透かし模様を布状にした、蒼と白い糸で編み込まれた装飾レースが施されている。落ち着いた全体像だが、よくよく見ると妃と同じくらい手のかかった装束となっていた。
 舞衣装で、ひらひらしゃらしゃらした服を着ることが多い桃花でも、刺繍ひとつで家が建ってしまいそうな服に頬が引き攣った。どこかに引っ掛けてほつれさせたたどうしよう。不安が胸をよぎる。
 後宮での生活は快適であると同時に、とても気を遣うことが多かった。日常で使う茶器ですら、金一両はくだらないのだ。

 着飾られる様子を、すでに準備万端な桜妃が微笑まし気に眺めている。
 椅子に腰かけ、金糸梅の綻ぶ扇子を扇ぐ桜妃は珍しく髪をすべて結い上げて、細かく編み込み簪や櫛を挿していた。金糸梅の花言葉「太陽の輝き」は彼女にぴったりだ。
 裳には五弁花の宝相華ホウソウゲが描かれ、涼やかなさらさらと水の流れる音を奏でる鈴簪は、黄州原産の琥珀がふんだんに使われている。胸のすぐ下で結ばれた帯には佩玉や珠飾りが提げられて、鶯の鳥飾りは黄家の家紋鳥だ。
 彼女を着飾るすべての装飾品が気高い身分を表していた。

「はい、これで終わりです」

 唇に筆で紅を乗せられたのを最後に侍女たちが離れていく。花見以前に準備だけで疲れてしまった。
 姿見の前へ促され、げんなりしつつ鏡の前に立つと、普段とは違う自分が映っていた。

 薄化粧した少女の顔は、月明かりにひっそりと咲く花のように美しかった。
 しっとりと濡れた瞳は蒼く冴え渡り、薄紅の唇はみずみずしい果実のよう。額には赤い花弁が描かれて、目元を彩る色彩は形の良い瞳を際立たせ、つい目で追ってしまう色香があった。
 自分でする化粧とは違う、派手過ぎず、けれど主張することを忘れない化粧にぱちくりと目を瞬かせる。
 ほぅ、と息を吐いて自分自身に見惚れる桃花に、桜妃は笑みを湛えて声をかけた。

「さぁ、準備ができたことですし、御花園へ向かいましょうか」

 春桜宮を出ると、宮のある東南区画に住まいがある姫たちがそれぞれめかし込み、侍女を引き連れて桜妃のことを待っていた。
 六夫人の世羅セラ姫と、九嬪の英咲エイサク姫と雲緋ウンヒ姫だ。

「御機嫌よう、桜妃様」
「天気にも恵まれた、とても良き日ですね。さぁ、皆さん、御花園に行きましょう」

 先頭を桜妃が行き、桃花を含めた四人の侍女が後ろに続く。春桜宮に仕える侍女でもやり手の侍女たちだ。

 桜妃の後ろに世羅姫が続き、英咲姫と雲緋姫が粛々とついてくる。
 黒い衣装の英咲姫と白い衣装の雲緋姫は対照的で、世羅緋は落ち着いた若草色の装束を身にまとっていた。
 春桜宮で過ごしているからには、関わらざるを得ない姫君たちである。すでに数回お茶会やお食事会で顔合わせを済ませており、優しい姫君たちであることを知ってるので改めて緊張することもない。

 御花園は西門から出て向かう。後宮を出たところで護衛の衛士たちが数人合流し、遠目から見てもわかる豪奢な造りの楼閣を目指して歩いた。

 紫禁城最大の花園にある楼閣・姫華宮きかきゅうには亡くなった姫の魂が宿るとされ、皇后の許可なく立ち入ることを禁じられている。皇后が不在の今は、許可する者が居らず、開かずの間となっている。
 姫華宮の最上階から御花園を見渡せたなら、最高の景色が望めるだろう。
 後宮の花園なんて目じゃない、比べ物にならない美しい花園は、絵師に描かせた風景画の中でも貴族の間で人気が高く、紫禁城を訪れたなら一度は見てみたい場所でもある。
 季節によって色を変える御花園は、春が過ぎようとしている中でも桜が咲き誇り、夏の訪れを待ち望んでいる。

 官吏たちが姫君の列にこうべを垂れ、麗しい女人たちに頬を染めた。

「お待ちしておりました。桜妃様、世羅姫、英咲姫、雲緋姫」

 普段は半分だけ結い上げた髪を、今は後頭部でひとつにまとめ、冠を被った姿に瞠目する。
 一瞬だけ目が合い、微笑まれた。
 ハリのある蒼い衣は普段よりも装飾が多く、佩玉や珠飾りがしゃらりと揺れた。

 

 贈った簪を挿しているのを認めて、桃真は笑みを深める。これで桃花にちょっかいをかける者は段違いに減るだろう。高官が多く出席するこの宴で、蒼家を表す簪を身に着けた少女は目立つだろうが、蒼家にちょっかいをかけるような馬鹿もいない。
 それだけ、蒼家とは大きな一族なのである。

 季節に一度行われる花見は、祭祀を司る礼部が主催である。礼部尚書は訪れる長官たちへの挨拶回りに忙しく、侍郎は礼部官吏たちの指示に忙しい。そこで、姫君たちの案内役に選ばれたのが桃真だった。
 王の妃たちの案内役とだけあり、桃真自身も見劣りしないように蒼家節全開の官服を着せられていた。じゃらじゃらと装飾品やら佩玉やらが邪魔くさい。いっそ雨でも降って中止になればよかったのに、と思わずにはいられなかった。
 どうして自分が好きでもない姫君たちのご機嫌伺いをしなければいけないんだ、とひそかに内心で憤っていたところ――桜妃率いる東南区画の姫君たちが到着した。
 頭を垂れて、拝礼をする。

「お待ちしておりました。桜妃様、世羅姫、英咲姫、雲緋姫」

 一瞬だけ彼女と重なった視線に、笑みを深める。
 なによりも嬉しかったのは、贈った簪を付けてくれていることだ。これでひとまず虫除けは安心できる。簪を贈られる意味を理解していないだろう桃花が愛おしい。
 いつもとは違う雰囲気の化粧は、元の張り詰めた糸のような雰囲気を和らげて、月影に咲く花が陽だまりに照らされたようだった。

「とても素敵だよ、桃花」

 甘やかな声に、頬を赤らめて視線を反らされる。

「簪も、してきてくれたんだね。すごく嬉しいよ」
「こ、これは、気づいたら挿されてただけです。あまり派手じゃないし、今日の服装にも合っているから……」
「気に入ってくれたんだ」

 むっすりと、頭から湯気を上げて黙り込んでしまった彼女に笑みがこぼれる。頬を撫でて、するりと髪をすくい上げて唇をつけた。周囲で「きゃぁ」と甲高い声が聞こえるが気にしない。

「な、な……!」
「もっと深い蒼を身にまとってくれていたなら、僕は極楽へ渡っていたかもしれない。天女のような君を、地上に繋ぎ止めることが僕にできるだろうか?」

 そのまま、顔を近づけて――目の前を金糸梅に遮られる。

「私のお客様にイジワルをしないでくださいませ。そろそろお仕事をなさった方がよろしいのでは?」
「……桜妃様」
「色ボケてないで早く案内をしてくださいませ」

 ツン、とそっぽを向いた桜妃は機嫌が悪そうだ。後ろに控える姫君たちは顔を赤らめていたり、ムスッとしていたり様々である。

 ムスッとしているのは世羅姫だ。以前から桃真に対して目立つ言動があり、近々主上に上言するつもりであった。主上がわざわざ桃真を連れて後宮内を歩くのは、目の役割もあるからだ。主上という慕うべき相手がおりならが、よその男に現を抜かす尻軽な姫は後宮には必要ない。
 遠くない未来、世羅姫は後宮から去ることになるだろう。せっかく六夫人にまでなったのに、もったいないことだ。

「さて、参りましょうか」

 上座に主上が座り、その左右に姫君たちが座することになる。右に椿妃と蘭妃。左に桜妃と葵妃だ。何とも言えない配置に思わず苦い顔をしてしまった。
 すでにほかの三妃はそろっており、桜妃を待っていたところ。言わずもがな、桜妃は葵妃と仲が悪いし、椿妃と蘭妃の仲もまた良いとは言えなかった。
 せめて違う組み合わせではいけなかったのだろうか、と礼部侍郎にこぼしたところ、占じ事での決定であるため、よほどの何かがない限り変更は難しいだろうとのこと。

 王城内での行事や催事の日取りや人の並び等は全て、神祀宮しんしぐうまじない師によって取り決められる。星読みなどを行う、三省六部とは別の独立した機関だ。
 神祇宮長官の小柄な老人はどことなく不気味な雰囲気で、桃真は苦手意識を抱いていた。そもそも呪い事というのが胡散臭くて信用ならない。
 神祇宮長官の呪いでは、第一に御子を身籠るのは夏の加護を受けた葵妃である、とされているが、流産である、とも占じられている。どうして最重要機密に近いそれを知っているのかと言えば、主上に呪いをする場に無理やり同席させられたからだ。職権乱用もいいところである。

「あら、御機嫌よう、桜妃様。今日も可愛らしいお召し物ね」

 さらさらと流れるせせらぎのような女性だった。深い真紅の裳に、夜の闇の黒髪と白い肌が映えている。
 髪を編み込み結い上げている桜妃とは対照的に、艶やかな黒髪を流して花飾りに紅梅の簪を指しただけの葵妃だったが、濡れた瞳に、ぽってりと赤い唇はとても色香があり、微笑まれでもしたらコロッと男を落とせそうな傾城の美女であった。

「……御機嫌よう、葵妃様。葵妃様は相変わらず華のようでございますね」
「あらあら、ありがとう。嬉しい言葉だわ。ところで、桜妃様、わたし、」
「――お二人とも、そろそろ始まりますのでお席にお座りください」

 頭の痛くなる嫌味のやり取りに割って入り、桜妃が席に座るのを見届けてからほかの姫君も用意された席に着く。

「あの、桃真様、わたしはどこに座れば」
「僕の隣なんてどうかな?」
「わたしに死ねと仰ってる?」
「冗談だよ。桃花は桜妃様の後ろの席に座ってくれるかい」

 桜妃の斜め後ろに用意された席に、「え」と表情を固めた。目立つ席だが、桃花の存在を周知するにはもってこいの場所だ。
 蒼い簪をつけた美しい少女。あどけなさを感じさせる面立ちだが、ひとつひとつが洗練されて、研ぎ澄まされた剣のような輝きを放つ少女――桃花に、桃真は周囲がどんな反応をするのか楽しみでしかたなかった。お気に入りの玩具を見せびらかす子供の気分だ。

「大丈夫、安心して。君はとても綺麗で可愛らしい。桜妃様の後ろに控えても問題ないよ」
「そ、そういうことを言っているんじゃない……! もっと目立たない席とか、ないのか!?」

 時折崩れる口調すら愛おしい。もっと素の彼女を見たいと思い、ついイジワルをしてしまうのだ。
 こうしている間にも、視線が集まりつつあることに彼女は気づいていない。見せびらかしたい気持ちと、大事に大事に箱にしまって鍵をかけて自分だけのものにしてしまいたいという気持ちが拮抗する。
 これが恋なのか、愛なのか定かではない。真っ当な感情じゃあないことは自覚済みだ。
 歪んだ感情を向けられていることに気づいていない可愛い(可哀そうな)桃花は、焦った表情で桃真の袖を掴んでいる。
 少女めいた、人形のような美貌をしていながら、口調は男童のようで、そんな懸隔ギャップすら魅力のひとつに見えてしまう。

「蒼官吏! 少しよろしいでしょうか?」
「あぁ、今行くよ。……ごめんね、もう行かなくては。僕がいなくて寂しいと思うけれど、いい子にして座っているんだよ」
「さ、寂しくなんかなんだからな!? 変なこと言っていないでさっさと行ってしまえっ」

 する、と解かれて手のひらを、きゅ、と引き留めて唇を寄せる。真っ赤になった顔で、振り上げられた手を躱して踵を返した。
 背中を向けた彼女がどんな表情をしているのかも知らずに、桃真は上機嫌に呼ばれた方へと向かうのだった。


 酒は好きだが、一向に杯が進まなかった。美しい見た目の料理も一口二口手を付けて、箸は置いてしまった。
 青い空を彩る桜吹雪の中、楽が奏でられ、皆一様に酒の席を楽しんでいる。

 朝廷を治める長たちが揃い踏み、袖の下で声を潜めたり、しゃっくりのように笑う者もいる。そして時折、桜妃の後ろに座る桃花に視線が向けられた。まるで針の筵の気分だ。
 舞台上であれば、どれだけ注目されても気にならないのに、ただ座っているだけで視線を向けられては、通る食事ものどを通らなかった。
 桃真は――王様から見て右側の、上座に近い方に座っていた。長ともなれば壮年から中年の男性が多い中で、桃真ほど若い官吏はあまりおらず、異質な存在感を放っている。

「桃真君、彼女が例の舞姫かい?」
「……リク侍郎も気になりますか?」

 人の好い、穏やかな人相の男性は桃真の上司にあたる礼部侍郎の陸シン。礼部に配属されてからずっとお世話になっている人だ。三十代半ばとは思えない童顔に、彼の同期たちは「昔から顔が変わらない。あやかしの類ではないか」と言っている。朝廷七不思議のひとつだった。
 わくわくと目を輝かせて、桜妃の後ろに隠れる少女を見やる陸に苦笑する。
 居心地悪そうにうろつかせた蒼い目とぱっちりと視線が合う。さすがに長達を前にして手を振るわけにもいかず、にっこりと笑みを浮かべて返した。

「あ、ほら、目でやりとりをしてるじゃないか。やっぱり、君と彼女、好い仲なのかい? やっと桃真君にも春が来たのかぁ、って、尚書と目元を袖で拭っていたんだよ」
「余計なお世話ですよ。好い仲というか、僕のお気に入りというか。まぁ、彼女が奥さんになってくれたら、僕は喜んで毎日家に帰るでしょうね」
「わぁ! それで、それで? どこまで進んだんだい?」
「彼女、とっても奥手で恥ずかしがり屋なので。でもほら、見てくださいよ。僕が贈った簪を挿してくれているんです」

 にっこり。いけしゃあしゃあと言ってのける色男に、この場に桃真がいれば張り手が飛んでいただろう。奥手で恥ずかしがり屋なのはそうだが、進むどころか始まってすらいないと陸に教えてやりたい。

「簪! 遠目で見えないけれど、蒼い簪かな? わぁ、もう結婚まで秒読みじゃないか。式を挙げる時はぜひ呼んでおくれよ」
「ははは、楽しみにしていてください」

 ツッコミがいない大惨事な会話だった。

 桃真には絶対的な自信があった。顔は良い(事実)、家柄良し(事実)、性格も良い(自称)のだから、落とせないわけがない。求婚も結婚もあながち冗談じゃない。こうして上司に話をするのは外堀を埋めるのと、根回しの意味があった。結婚せざるを得ない状況を作ってしまえばいいのだ。
 身請けの話も、本気だ。実際は光雅楼の大旦那と話をしてみてからになるが、絶対に手に入れるつもりである。
 恋というには重くて、愛と呼ぶには歪んでいる、独占欲だ。
 桃花は気のない男に贈られた物を身に着けるような少女ではない。脈ありと考えて間違いないだろう。

 桃花が恋愛事を避けているのは、接していてよく理解した。恋に踊らされるのが怖いのだろう。愛に溺れるのが恐ろしいのだろう。物を受け取るとき、一瞬だけ怯えた目をするのだ。
 そんな彼女が、誰かの物になると考えたとき、全身の血が沸騰するかのような怒りに支配された。

「私も彼女の舞が見てみたいなあ」
「あぁ、そういえば陸侍郎は武闘会の時は別件でいなかったんでしたね」
「そうそう。あとから彼女の舞の話を聞いて、何としてでも見に行けばよかったなぁって後悔したよ」

 酒を仰いだ陸の空になった杯に、度数の高い酒を注ぐ。
 そう言いながら上座を見ると、面布をした桃花が中央の開いた場に出てくるではないか。思わず目を丸くして主上を見れば、口角を上げて酒を飲んでいる。王の戯れか、妃の誰かが言い出したことか。
 音が鳴りやみ、奇妙な静けさがあたりを包んだ。

 旋律がそぅっと滑り、鈴がシャン、シャン、と転がる。鈴の音に合わせてくるりと裳を翻し、扇子がはらりと開かれた。
 はらはらと舞う桜の花びらを扇ぎながら、しなを作る体はあでやかで、一挙一動を目で追ってしまう。

 桜花想伝おうかそうでんは、桜の精が人間に化けて、春を喜ぶ曲だ。今日と言う日にぴったりな曲目に合わせて、桃花は扇で舞い踊る。
 つややかな濡れた目元は見る者の心を射抜き、細い手首がくんっと折れるたびについ手を伸ばしてしまう。
 官能的な色の強い舞に、いい年をした男たちは決して酒の精だけでなく頬を赤らめ、ぼんやりと春の夢に囚われていた。

 こんな舞、するだなんて聞いていない。ぎり、と奥歯を噛みしめながらも、目を離せない自分に苛立ちが増す。
 春を喜ぶというよりは、男を誘う舞に誰もが魅了された。今までの剣舞とは全く違う色に、心臓が早鐘を打った。

 シャン、と鈴が鳴ると同時に動きに緩急がついて、黒髪が宙を切る。ばらりと広がる黒髪と、黒い扇子が重なって紗のように顔を隠した。
 桜貝の指先が髪をすくい、伏せられた蒼い瞳が覗く。くるり、くるり、くるくるり。はらはら、ひらひらと桜が、裳が、扇子が舞って――音が途切れた。

 しばらくの間、誰も動くことができなかった。ある者はぽかんと口を開け、ある者は傾いた杯から酒がこぼれている。たかが小娘と、侮っていた男たちは覆された認識にハッとした。

 空気を断ち切るように手を打ち鳴らしたのは、桃真だった。

「見事であった」

 次いで、王の賛辞に、拍手が鳴り響く。

「……――桃真君、すごいものを見てしまったよ」
「ふふふっ、そうでしょう。そうでしょう。僕の舞姫はすごいんですよ」
「まさか、もう一度この目で天女が見れるとは思わなかった――」

 呆然と呟く陸の目は桃花に釘付けで、並々ならぬ感情で溢れていた。
 ただこの時は、桃花の天女の如く舞う姿のことを言っているのだと思っていたが、そうではないのだと気づくのはもっと後のことだった。


第八話


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