【一首評】すっぽりとこの世から消えたことなくて携帯の灯が点滅してる/野口あや子

第一歌集『くびすじの欠片』(2009年)巻末歌。

個人的には、いわゆるガラケーを使っていたのは十数年前、十代の終わりまでで、それ以降「携帯の灯が点滅してる」光景を日常的に見ることはなくなった。ただ当時はといえば、携帯電話のランプが点滅しているのを見つけると、心待ちにしていた連絡が来たのか、あるいは予期せぬ人からのものなのかと、多かれ少なかれ毎回心が浮き立っていたのを覚えている。飽きるほどメールをもらうような人はそうは思わなかったかもしれないけど。

さて、「すっぽりとこの世から消え」るというフレーズで歌が始まる。オノマトペが効いていて、神隠しにでも合うような印象のフレーズである。単に「この世から消えたい」と言ったときの、命を絶つとか、苦しみからの逃避といったニュアンスからは少し乖離している。加えて、「消える」ことで周囲が大騒ぎしたり心配したりといった波紋が広がることもなさそうだ。まるで自分なんて最初からいなかったかのような自然さで消える、そういうイメージをした。

でも結局、そんなふうに「この世から消えたこと」はないと言う。消えることなく今もこの世に存在し続けている。これは単に事実を言っているだけではなくて、一種の見せ消ちになっている。わざわざ見せて消すというこの仕草から何となく、この人はそういう消え方に心を惹かれている一方、そこまで強く思い切れてもいないのではないか、と想像した。

そこでふと、携帯電話のランプが点滅しているのが目に入る。この人にとってのランプの点滅が、冒頭に書いたような心浮き立つものだったとは限らない。これも確認したら後悔するような連絡かもしれない。ただ確かに、誰かからの連絡が届いている。良くも悪くもそれは、自分が他者とつながっていることの証である。点滅する「灯」は航行の目印をも思わせる。それに手が届けば、他者とのつながりの中に出て行くことになるだろう。

何の波紋も残さずこの世から綺麗に消えてしまう想像をしても、きっとできないだろう。結局、自分はどうしようもなく他者とつながっているからだ。そして何より、こうしてランプの点滅を気に留めている自分がいる。

この歌が巻末に置かれていることの意味を、受け止めたいと思う。

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