【ランダム五首評】田村穂隆『湖とファルセット』【イメージを橋渡しする縁語】


半夏生 左腕に陽が差したとき傷の部分がいちばん白い

p. 10より。
半夏生といえば白。この歌にかぎらず、多くの歌で縁語(と言っていいのか)が駆使されている。
上手いのは二句~結句のまとめ方だと思う。
腕の傷のことを、あくまで感傷的にならずに描写しつつ、「いちばん」を使って、傷の存在よりも白さに焦点を合わせる。「傷」で体言止めにしてより目立たせたりはしない。
そして白さに焦点が合ったとき「陽が差した」という描写が後から追いかけるように効いてくる。
最後に白の縁語である「半夏生」が追い越してゆく。
(自分にとっては)目立たなかったけれども、技術あればこその二句~結句だと思った。

電線がぎゅいぎゅいと鳴く そういえば入道雲の底は黒いね

p. 27より。
オノマトペを、しかもこういう字面のものを使っているとやはり「おどけている」感は出る。
でも、可笑しみよりは「こういうオノマトペを通して語ることを選択した(あるいは選択せざるを得なかった)ひと」を前半からは読み取りたい。この歌にかぎらず多くの歌で、このように飄々とした語り口で、苦痛を躱そうとしているように感じられるのだ。
そして後半、地域にもよるかもしれないけど、電線が鳴っているときに入道雲が出ているイメージは湧かないので、「そういえば」と、実際には出ていない入道雲のことに話題を変えたと受け取ってみる。
入道雲の底の感じと、電線が鳴っているときの暗い空の感じは、連想ができるにはできるけど(これも縁語の関係を想起させる)、イメージがよく一致するとも言い切れない。
だから、「そういえば」と話題を変えるとき、あくまで自然に振る舞おうとしつつも、ちょっと無理をしているような気がする。ちょっと無理をして、前半のような語り口を選択した自分からも目を逸らそうとしたのではないか。
その感覚もまた、苦しい。

どうせならディズニーランドになりたかった 過呼吸で滲んでいく夜景

p. 42より。
「ディズニーランド」と「夜景」はエレクトリカルパレードのイメージでつながっている縁語だと思う。
しかし、過呼吸で滲んでいく夜景よりもディズニーランドの方がはるかに能天気なのは間違いない。
そういう落差があるけれども、縁語の関係で上下の句はつながっている。
だからこそ、ディズニーランド「を見たかった」ですらなく「になりたかった」という(散文としては支離滅裂な)願望が説得力をもつ。
もはや人ですらない「夢の国」として、何も考えることなく光り続ける存在になりたかったのだ。

地球儀に花のシールを貼りまくる蛹の中の心のために

p. 92より。
縁語とはいえないけど、おそらく中が空洞である地球儀のイメージと、蛹の中に心があるというイメージには接点があるように感じる。
地球儀に花のシールを貼りまくったからといって実際の地球に花が咲き満ちるわけではないけど、これは自らの想像力を少しでも喚起しようとする営みなのかもしれない。
地球儀に花が咲き満ちれば、蛹の中の心も羽化するかもしれない。
未だ羽化しない心にとっては、そうやって想像力を喚起する営みが大切なのだろう。

口内を転がる記憶 銅鐸の音が聞こえてくる夕暮れに

p. 118より。
銅鐸、に加えて、銅剣や古墳といったモチーフが、本歌集ではよく出てくる。
たぶんこれらは「一度は眠りについたもの」「掘り起こすべからざる禁忌」の喩なんだと思う。〈感情の調査をすれば出土する銅剣三百五十八本〉(p. 54)といった歌もある。
だから、現実では聞こえてくるはずのないこの銅鐸の音は、なにか蘇ってはならないものが蘇りつつあるような感覚を呼び起こす。
また、口内で銅鐸を転がしているようなイメージも感じた。銅鐸は押せば転がりそうな形状をしている。ただ、もし本当に転がしたら大変なことになりそうで、このイメージにも禁忌の感覚がある。
口内を転がっているのはそういう記憶なのだろう。

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