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2020年3月16日 相模原障害者施設殺傷事件 横浜地裁判決が出た


もう二度と、このような事件が起こらないために裁判をしているわけではないから、

事件を起こした被告に対する判決が下るとすれば、極刑は免れないとは思っていた。

だから、驚きはしなかった。

被害者家族がもうこれ以上の判決もないし、裁判という苦しみの場からの解放であるのなら、お疲れ様と言いたい。

想像を絶する悲しみと苦しみと憎しみの中にあり、その悲しみは消えることがないとすれば、お悔やみ申し上げるばかりである。


しかし、被告がこの世界から消えても、けっして消えない問いが残る。

「どうして、殺そうと思ったのですか?」

「どうして、殺していい命があると思ったのですか?」

「どうして、私たちの子ども※は殺していいと思ったのですか?」

※私の子どもは、重度知的障がい者で、あの場に居れば殺されていた

※写真は、息子1歳半でやっとお座りが出来た頃。親にとっては天使でも、被告の主張によると、障がいがわかった段階で安楽死させるべきらしい


そして、

「どうして、私たちの社会は、知的障がいのある人を守りきれなかったのか?」

という問いの答えも得ることは出来なかった。


それは、被告ひとりだけでなく、被告を支持している表に出てくることのない一部の人々から、考える機会をも奪うことになる。

被告は、死刑を潔く受け入れることで、一部の人々のヒーローになるだろう。

彼は、終始一貫していた。

命の選別をすべきだと主張した。


そして、その考えは、一部の人々の心の底に刻まれてしまった。

反省もせず、後悔もせず、(わかりたくないという強い意志により)論破もされず、正しいことをしたと主張し、

その主張は、一部の人々が支持しているのだ。


そして、死刑判決は、殺していい命があることの国家による承認ではないか?


だから、思う。


どんな理由があっても、人は人を殺してはいけない。

不幸を生む人であろうが、

価値のない人であろうが、

社会に多大な迷惑をかける人であろうが、

極悪非道な人であろうが、、、、

人は人を殺してはいけない。


死刑判決を受け入れることは、殺しいてもいい命があることを受け入れることだ。

そして、一部の人々の心の中には、殺していい命とは、生産性もなく、(被告の主張によれば)さまざまな社会問題を起こす知的障がい者も含まれる。

私の子どもは命の選別を否定しない社会で、真っ先に命の選別をされる存在として、

生きるに値しない命として判断されかねないこの社会で、生きねばならないのだ。

その恐怖は大きい。


本来ならば、被告が罪に気づき、心から謝罪し、罪を償うことに向き合わなければならなかった。

被告を支持する一部の人々も、その罪に気づき、悔い改めなければならなかった。

被告が何を見て、何を読み、誰の意見を聞き、何を思ったか?

Twitterで誰をフォローし、誰の記事をリツイートし、SNSで誰に『いいね』をしたのか?

それらのもので、被告の思考は作られているのだから、徹底的に調べてほしかった。

そのチャンスも失ってしまった。


しかし、この事件を超えて、私たちはどうしたらいいのか?

答えなら出ている。


図らずも、それは、被告が口にした言葉の中にある。

被告が「事件を起こして、後悔していることはないか?」

と聞かれたときに、言った言葉がある。

「事件後、共生社会に動いたことが、ちょっと失敗したと思った。

でも、どうせ、共生社会は無理だってことがわかると思うけど」

と。


そう、これが、答えだ。

事件後、共生社会に向けて、地殻変動のような勢いで、動いた人々が居た。

それまで、けっして社会の中心に出てくることはなかったけれど、

ひっそりと知的障がいのある人と、共に寄り添ってきた人々の存在があった。

事件後に出会った、多くの素晴らしい人々が、私に希望を見せてくれた。


私たちは知っている。

私たちは、弱いからこそ助け合って、今までも生きてきたし、これからも生きていくのだ。


そして、命の選別を迫る社会の正体も知っている。

私たちを支配して、言うことを聞かせ、私たちの人生から、時間もお金も吸い上げてゆく魑魅魍魎だ。

魑魅魍魎にとっては、生産性のないものなど、いらないのだ。


そして、吸い上げたお金を私たちの為に一銭も使いたくないのだ。


だから、「こんなこと(社会保障にお金を使うこと)をしていては、この国はつぶれる」とか、

「このままでは、戦争に突入することになる」とか、

そんな嘘を吹き込まれて信じてしまった者たちが、私たちの命を狙いにくるのだ。


自分の手を汚さずに、私たちの命を脅かす魑魅魍魎を退治することにも、力を合わせよう。



今は、共生社会など、どうせ無理だと思う人も多いかもしれない。

でも、それは、過去の古いデータを元に割り出した古い結論だ。


私たちには、私たちが想像もしない未来が待っている。

それは、人手不足を、ロボットが補う未来かもしれないし、

身体的に乗り越えられない時空を、テクノロジーが補う未来かもしれない。

人間の解決できなかった問題を、AIが解決策を提案してくれる未来かもしれない。

助けあうために経済を回す方法だって、きっとある。

私は、人間の生み出した問題は、人間に解決できると信じている。

そして、それは、人間が生み出した技術によって、補われることだろう。


私たちには、ワクワクする未来が待っているのだ。


目指すは、優しい人類が優しいままで生きてゆける共生社会だ。



追記・被告は、裁判の終わりに、「一言いいたいことがある」と言って、却下されている。

なにが言いたかったのだろう。

その一言を言うために控訴して、裁判を終わりにしないでほしいと、私は願っている。

でなければ、被告や被告を支持する人たちが、罪に向き合うことが永遠に失われるからだ。

私と私の子どもは、彼・彼らが主張を変えない社会で生きねばならないことは、やはり怖いのだ。


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