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パラリンピックに感動したおばあちゃんが言った「次郎もがんばればしゃべれるようになるんやないんか?」

パラリンピックが閉会した。

コロナ禍での開催については、置いておく。私は開催すべきでなかったと思うが、それについては、またの機会に。

今日は、コロナ禍でなくとも、パラリンピックが、障がい当事者家族にちょっと厄介な問題を連れてくるという話をしたい。

私の母は、86歳で一人暮らしをしている。次郎が27年前に生まれたことで、初めて障がい児のおばあちゃんになってしまった。そう、なってしまったのだ。なんの準備もなく、なんの覚悟もなく。

だから、次郎の障がいがはっきりしてくるに従って、顔を見れば、「今の医学で、なんとかならないのか?」と言い、「なんとか、しゃべれるようにだけでもならないのか?」と言い、しまいには「どうして、こうなって(知的障がい児)しまったのか?」と嘆くのだった。

その度に、母である私は、「次郎は次郎なりの発達をしているのだから、これでいいのよ」と言い、「障がいがあることの何がいけないの?」と言い、「障害は次郎の持ち物ではなく、社会の持ち物なのだから、変わるべきは次郎ではなく、社会なのだ」と言った。

障がい児のおばあちゃんに成りたての頃は、受け入れることが出来ないのもしかたないと思い、私も丁寧に説明をしてきたつもりだ。けれど、あまりにも、会う度に同じ話の繰り返しになり、聞いている次郎も、そろそろ自分の何かがおばあちゃんを嘆かせていると気づくのでは?と思うようにもなり、勢い「ばかに付ける薬はないのよ」と言ったものだった。すると、さすがのおばあちゃんも、あきれ返って黙るのだった。

最後に、私が「でもね、ばかな子ほど可愛いっていうのは本当だよ」と言うと、おばあちゃんも「それはそうよ」と一緒に笑ったものだった。

気が遠くなるほど繰り返されたおばあちゃんとの会話。近頃は、やっと次郎を次郎のままで認めてくれていると思っていた。さすがに、諦めがついたのだろうと。

ところがどっこい、まだまだ、おばあちゃんは諦めてはいなかった。

パラリンピックを見て感動したおばあちゃんは、再び、頑張れば障がいは乗り越えられるのではないか?と思うに至り、件名の「次郎もがんばればしゃべれるようになるんやないんか?」と言ったのだった。

私の長年の努力が振り出しに戻る。

もうさすがに優しくなど言うことが出来ない。「出来ないことは、出来ないのよ。」86歳のおばあちゃん相手に、声に力が入ってしまう。「オリンピックを見て、だれが100メートルを10秒で走れるって思う?頑張れば出来るって思う?思わんでしょ。なのに、パラリンピックを見たら、なんで障がい者にがんばれって思うんよ?頑張れば障がいを克服できると思うんよ。出来ないことは出来ないんよ。私がどんなにがんばっても100メートルを10秒で走れないのと同じように、次郎がどんなにがんばってもしゃべれるようにはならんのよ。」

おばあちゃんは、それでも感動冷めやらぬ様子で、「いろんな障がいがあるんやなあ。アナウンサーの人も、訓練でしゃべれるようになったらしい。見てるうちに、次郎もあんな風に出来るようになるんやないかと思ったんよ。次郎がしゃべれさえすれば、どんなにいいかと思うんよ。」

そう、それほどまでに、夢を見させてくれる大会だったのだ。

おばあちゃんを楽しませてくれてありがとうパラリンピック。そして、おばあちゃんに、余計な夢を見させてくれて〇〇〇〇〇!

そうそう、当の本人・次郎に「おばあちゃんがパラリンピックを見て、次郎もがんばればしゃべれるようになるんやないか?って言うてたよ」というと、盛大に「あはは」と笑っていた。『そんなバカな!?』というように。

次郎の笑顔は、どんながんばりよりも偉大だよ。


ところで、パラリンピックを障がい者スポーツという括りで語るのには無理があるな~と感じている。

障がい者スポーツというのなら、最も弱い人が勝つルールのスポーツなんかでやってほしい。

知的障がいのある次郎とスポーツの経験を少し書こう。次郎は発達が遅れていたから、運動能力も遅れていて、小中と出来るスポーツはなかった。私はてっきり次郎はスポーツには興味がないと思っていた。

ところが、支援学校高等部にスポーツクラブがあり、なんと次郎は『入りたい』なんて言い出して、ちょっとびっくりした。けれど、ああ、みんなみたいにスポーツもやりたかったんだ。でも今までは入れてもらえなかったんだ~とやっと理解した。

それで、高等部でやっと入れてもらえたスポーツクラブでどうなったか?というと、障がい者のスポーツクラブでも、やはり優秀な生徒が居て、その優秀な生徒は大会に出場したりもしていて、次郎は結局、手も足も出ずにか、自ら足手まといになることを避けたのか、やめてしまった。

それから27歳になる今まで次郎に出来るスポーツを見つけられないままだ。それでも次郎が、ボールを持って「マーマ(公園に行こう)」と58歳の私を誘う姿は愛おしく、悲しいものだ。次郎の人生でいつスポーツに親しむチャンスがあった?次郎の参加出来るスポーツはどこにある?スポーツどころか、ボール遊びの相手も居ないじゃないか!


ともあれ、パラリンピックが様々な人生と出会う場になっているということは、いいことと思う。けれど、パラリンピックで障がい者のことを知ろうと思っても、それは無理だ。なぜなら障がいのある人の大多数は、パラリンピックと無縁な生活をしている。健常者の多くがオリンピックと無縁に生活しているのと同じように。

なので、『パラリンピックを見ても、障がい者のことはわからない』という基本を押さえておいてほしい。何度も言うが、オリンピックを見ても、健常者のことがわからないのと同じように。


パラリンピックという特別な舞台を作らなくても、社会の隅に追いやられがちな障がいのある人たちに、社会の真ん中に来てもらおう。特別な才能がなくても、特別な努力をしなくても、だれもが主役の社会を作ろう!







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