どうしても太郎ちゃんでなければならない理由
私は、3人の子どもをシングルで育ててきた。3人のうち末っ子には重度の知的障がいがある。きょうだい児のうち一人は15歳で難病を発症した。そして残りひとりも15歳で引きこもりを経験した。
私は「こんな親でごめん」と泣きながら子育てをしてきた。
末っ子を元気に産んであげられなかった時、自分の所為だと思った。「元気に産んであげられなくて、ごめん。」と泣いた。
きょうだい児の二人が公園で喜んで遊んでいる姿を見るだけで、涙が止まらなかった。こんななんでもない公園で、はしゃく子らが不憫だった。「ごめんね。どこにも連れていけなくて」と泣いた。
食事の買い物すら満足に行けなくて、末っ子が寝ているすきに、自転車の後ろに長女を、前に長男を乗せて、大急ぎで買い物に走った。長女も長男も何も欲しがらなかった。「ごめんね。なにも買ってあげられなくて。」そうして大急ぎで帰っても、末っ子はひと気のなくなった家で「ヒィヒィ」力なく泣いていた。「ごめんね。起きてたの。ごめんね。寂しかったね。」と抱き上げて、一緒に泣いた。
子どもたちに、清潔な家も、栄養のある食事も、のびのび遊ぶ環境も与えてあげられなかった。私は、毎晩子どもたちの寝顔を見ては、泣いていた。
こんな親なのに、子どもたちが頼りにしてくれることが嬉しくて、必死で生きてきた。必死過ぎて、子どもたちをすごく怒ったりして、また、寝顔に「ごめん」と泣いたりした。
だれも助けてくれなかった。助けてって言えなかった。言っちゃだめだと思っていたし、言っても助けてくれないと思っていた。
子どもたちが少し大きくなってから、子どもたちの将来のために、なにか出来ることはないかと、市民運動のようなところに顔を出すこともあった。戦争反対とか、脱原発とか、とっても大事なことだと思う。最も大事なことだということもわかる。
でもね。
長いこと市民運動をされてこられた方に対する尊敬と、感謝の気持ちはあるけれど、だけど、これじゃ救われないんだってわかった。私が救われなかったわけが、わかった。
あのね。
後回しなんだよね。
私みたいな少数の小さな問題は、後回し。もしくは当事者が運動すればいいって感じ?
なんていうか、今までの市民運動じゃ、救われなかったよね私。そして、これからも、私たち救われないよねって思うんだ。私は今だって助けてほしい。障がいのある息子との二人暮らしに明るい展望はないし、今だって私が息子を虐待するかもしれない。
だけど、お金にも時間にも、余裕がある人には見えないし、視界にも入らないんだよね。だって、私たち、もっと下のほうを這いずり廻っていたのだから。涙でぐしょぐしょになりながら、みっともなく子どもを叱ったりしながら、そして、しゅんとなって、下向いてトボトボ歩いてきたから。あなた方の遠くを見る目には、入っていなかったんだと思う。
私たちは、今までだって、今からだって、この社会の中に居る。だけど私たちの抱える問題は、おそらく、これからも、後回しにされる。なぜなら、私たちの問題を解決するには、お金がかかるから。
もう何回聞いただろう「予算がない」「経済的に厳しい」と。だから、私は、ひとりで子どもを抱えて泣いてきた。今でも、障がいのある息子と暮らしながら泣いている。
私には、疲れた時に休む自由がない。私には、好きな時に好きなところに行く自由がない。それは障がいのある息子がケアを必要とするからだ。そして、障がい者の息子にも、好きな所に住み、好きなことをして暮らす自由はない。それは、私と障がいのある息子に、あたりまえの人権がないことを意味する。
もしかして、母親は愛情深く、障がいのある成人した子どものケアをしていると思っている?もしかして、年老いた親の介護を愛情を持って子どもがしていると思っている?もしかして、そのケアする人の自由だったはずの時間や、疲労や、精神的苦痛は、無償の愛で埋め合わせると思ってる?
過去に女性たちが、膨大な犠牲を強いられて、嫁と言う名の奴隷制度によって家事も育児も介護もまかなってきたことを知ってほしい。私は嫁ではないけれど、母親の愛という呪縛から逃れられない。無償の愛というタダ働きに変わる、新しいシステムには、膨大なお金がかかる。
そのお金のかかる大きな一歩を踏み出してくれる人は誰?
「私には人権がない、なんとかしてほしい。」と言ったときに、真剣な顔で聞いてくれる人は誰?
今までの人じゃダメなんだ。今までの政治家。今までの市民運動家。長いことやってますって人ほどダメなんじゃない。だって、今まで、後回しにしてきたんじゃない?
たとえば、シングルマザー家庭の平均収入は、一般家庭の1/3だとか。
たとえば、仕事を探そうと、保育園を申請しようとすれば、「仕事が決まってから申請してください」と言われ、職安に行けば「保育園に預けてから来てください」と言われるとか。今でも、たいして変わってないでしょ。待機児童はいつまで待機させられるのだろう?すぐに大きくなっちゃうのに。
たとえば、長女が15歳で難病認定されて、17歳で難病を外された。病気が良くなったんじゃない。他の難病が認定されて、軽いとされた人が外された。椅子取りゲームのように、誰かが認定されれば、誰かが外される。
たとえば、不登校になっても、「学校に来るように」とは言われるけれど、学校に行く以外の選択肢は用意されていない。子どもに教育を受けさせる義務すら守られていない。
障がいのある子どもは、普通の学校にも行かせてもらえない。
子どもの虐待は後を絶たない。
障がいのある人への虐待も後を絶たない。
子どもの自殺も後を絶たない。
大人の自殺も後を絶たない。
引きこもったままの人は100万人にもなるという。
そんな、一番最初にやらないといけないことを、後回しにしてきたじゃない。
障がいのある人は隔離されたままだ。普通に暮らすことがむつかしい。
それは、障がいがあることに問題があるのではなくて、障がいのある人に適切な環境を用意できない社会の所為なのだ。それには、お金がかかりすぎるから、と、後回しにされてきたのだ。
そう、すべては、お金がかかりすぎるというわけだ。
最近知った言葉に『ゼロサム』というのがある。
サムは合計のこと。ゼロは0だから、『ゼロサム』は合計0のこと。
たとえば、難病指定の話しがそうだ。誰かが認定されたら、誰かが認定を外される。合計が決まっているからだ。
たとえば、受験。私が受かるということは、誰かが落ちるということだ。私はそれが嫌で、高校は定員割れの高校に行った。大学受験はしていない。受験戦争に勝ち残ってきた人には、負け惜しみにしか聞こえないだろうけど。
その後の世界も、ずっとゼロサムの世界だった。
福祉予算だって、上限が決まっているから、誰かが支援を受けられると、誰かが切られる。
あからさまではないけれど、結局、必要な支援が受けられるのではなくて、決められた予算内で収まる支援を割り振られるわけだ。
このゼロサムの世界って、この価値観って、これが間違ってたんじゃない?
行政の仕事が、納税によってのみ賄われると考えるのもゼロサムだ。税収が決まっているから、支出合計も決まっている。これだから福祉に使える予算もゼロサムになる。ゼロサムだから、各種手当に所得制限を付けなければならなくなる。けれど、線を引くことで、不公平感が生まれる。「自分たちが収めた税金を低所得者に使うな」というわけだ。
その延長線上にあるのが、生産性のない者を養うことは無駄だという感情。重税に苦しむ人々がそう思ってもしかたない。
必要な支援を、行政は税金だけを財源にするのではなく、国なら国債、地方自治体なら地方債から調達できることを太郎ちゃんから知った。借金することをよしとするのだ。
これを反緊縮(はんきんしゅく)というらしい。
反緊縮の反対=緊縮(きんしゅく)はわかりやすい。家計に似ている。子どもに借金を残すな。節約をしよう。無駄をなくそう。というわけだ。財源は税収で、その範囲で支出を決めていく。優先順位は思想によって変わるけれど。とにかく、ケチケチしている。それを、今まではあたりまえと思ってきた。借金はしてはいけないと思ってきた。
ところが、太郎ちゃんは、そんなことすることない!って言うからびっくりだった。
反緊縮は、要するに、国が紙幣を発行できるのだから、必要なお金を発行すればよいということ。国の借金は、誰かの資産となるのだから、返す必要はない。そして、税金の役目は、世の中のお金の調節をすることだ。ちょっと、お金が多くまわり過ぎているなら、消費税などで、消費を抑えるというような調節。
景気が悪くて経済が回っていない時に、消費税を上げるということは、景気をもっと悪くすることで、絶対にやってはいけないことだ。
日本は、平成の間ずっとデフレだった。物の値段が下がり続けた。今や海外からの旅行者数を誇って、インバウンド需要なんて言うけれど、単に日本の物が安いから人が来るのだ。安さ競争は悪の競争だ。人権費を削り、環境に配慮せず、原料を買い叩き、安さは実現する。だれも幸せにしていない。
デフレで喜んでいるのはお金持ちだ。インフレになるとお金の価値が下がる。なんとしてもデフレであれと思っているのだ。それは、大金持ち(企業とか)も小金持ち(景気に左右されない公務員とか)も同じだ。自分のお金の価値が下がるのが嫌なんだ。
だから、太郎ちゃんの反緊縮は、大金持ちからも小金持ちからも嫌われる。
それから、大金持ちも、小金持ちも、権威主義だから、中卒の太郎ちゃんが経済を語っても、聞く耳を持たないのだ。
景気に左右される自営業者にとっても、必要な福祉の届かない人にとっても、教育を受ける権利を奪われている子どもにとっても、太郎ちゃんは見方になってくれる。
そしてなにより、お金の心配のない世界というのは、優しい世界になると思わない?
そんな世界は信じられない?
書いてて気付いたけど、グローバル企業が、反緊縮をやられたら困るんだろうね。貧困に苦しむ人がブラックな仕事をさせられていることからしても、太郎ちゃんみたいな政治家が現れると困るだろうね。
目を覚まそう!
人って本来優しい生きものなのだ。でなければ、この厳しい自然界で、牙も爪も毛皮も持たない丸裸の弱い人間が生き残ってきたはずがない。弱いからこそ助け合って、いたわりあって生きぬいてきたのだ。助け合うことこそが、人類の生存戦略なのだ。
このまま、グローバル企業の思うまま、悪の競争をして、自然を破壊し、人と人が殺し合い、傷つけあうのなら、私は生きているのが辛すぎる。
ね。
家を失くした人をほっとけなくて、声をかけてしまう太郎ちゃんなら、任せられると思わない?きっと、素晴らしい世界を一緒に作れる。
だから、
どうしても、太郎ちゃんでなければだめなんだ。
書くことで、喜ぶ人がいるのなら、書く人になりたかった。子どものころの夢でした。文章にサポートいただけると、励みになります。どうぞ、よろしくお願いします。