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神去感覚

自分の近況を人に見せる前提で書くこと、前までだったら喜んでしていたが、今日に限っては気が塞ぐ。

神が去る、と書いて神去と言う。調べると、皇族などの高貴な人間が死去(薨去)する時と、神通力「で」消え去る、という2つの意味にて主に使用されるらしい。
ネット知識なので、紙の辞典も参考にされた方がいいかもしれない。(この単語、三浦しをんの著作でも使用されていたことを、後々思い出した。あの著作も面白い。映画は途中まで見た気がする。)

私はこれを、私のような人間のもとから、神が去ることの意だと思っていた。
神、言い換えれば、運・ツキ、もしくは気力、創作のひらめき、みたいに捉えている。それが、去った、ような感覚を神去感覚と勝手に題し、一人、部屋で「かむさり、かむさり」とつぶやいていたりする。

写真はおろか、SNS上の気軽なつぶやきさへも億劫になった。人ウケばかり気にするようになってしまったようだったし、何が楽しいのかもよくわからなくてただ苦しいばかり。写真が私を救ってくれるとか、何者かにしてくれると、正直、委託どころか依存していた節があった。でも、いつもどこか不安だった。いつか「枯れる」と思っていた。最初から影はあった。誤魔化しみたいな感覚がいつもあった。

私の場合、テーマ立てて撮るよりか、撮って気になるものを見たら、隠されている意味がわかる、といったおよそ非効率な撮り方もとい生き方をしている。
伝えたい何か、わかって欲しい何かが消えてしまったのだろうか、どこか満足してしまったのだろうか。
「撮る気力がない」と言っておよそ2年は経とうとしている、いやもっとだ。無理して撮ろうとするともっと嫌いになる。どうでもいい、所詮私が生きるために持続的に必要なものではなかったんだ、やめてしまえ。みっともないぞ、というもう一人の私の声がする。

もし神が去ったとして、私のもとには一体何が残っているのか。インスピレーション、が枯渇したとしても、私は私であるという確信が何もなかった。カメラの目になりきることも不可能で、納得できない。かといってテーマやら現代美術よりに何か思いつくわけでもない。やりたいことが出てこない。写真だけじゃなくて人生においての話だ。

世界に対する尊敬がなくなってしまったのやもしれないとも思った。私の脳内では依然として「神去、神去」という声と、イメージとして、昔話の天女の羽衣が浮かぶ。あの始まりがあってこその悲劇の最後。盗ったものを我が物顔して発表してきた天罰、だろうか?

私の人生の第一章は、終わりを迎えている感覚がある。きっとそれは正しい。
「疲れたなぁ」というのが日々の第一声。
想像を超える二章目があらわれることを願い、祈りながら、この日記、雑記を〆たい。私が、私でありますように。