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理想を描くという妄想にも限界があるか?

還暦をすぎて第二の人生が始まり、運勢的にも時代的にも大きな節目を迎えているという今、自分が心から願う理想を描くことが大事という。

高い理想は妄想とも似ているが、こうした妄想は、子どもの頃は日常感覚であった。サンタクロースが良い子の家にプレゼントを届けてくれるように、むしろ妄想の世界に生きているとも言える。
あるいはサッカー選手になりたいとか、ユーチューバーになりたいとかもう少し現実的な夢でも、現実の困難を知らない妄想の面が大きい。

しかし一方で、こうした妄想のような夢が人生を牽引する目標地点となったりもする。根拠となる体験がある場合もあるだろうし、無我夢中のうちに導かれることもあるだろう。若い時の強みは、妄想に向かって情熱を傾けられる無謀さと情熱にもある。

私のような歳になると多少世間のことが見えてくるし、損得勘定や世間体みたいな処世術が否応にも染み付いていて、何かを願っても、すぐに「しかし」「いや待てよ」「よく考えると」「現実問題」などとすぐにたくさんの注釈が付いてくる。

若かりし頃、損得や後先考えずに無我夢中でやったこと、それこそが1番好きでやりたかったことだろうと思う。
還暦の第二の人生では、その若い時と同じことを妄想することもあるだろうが、それまでの人生を踏まえて、また違ったものになることもあるだろう。
私は割と一貫した人生の目標を追いかけてきた方であるが、それでも思い描いたものとは違うものになっているし、予想もしなかったことこそが人生の醍醐味であるとも言えるだろう。


礼文島の桃岩付近の断崖

これまでの人生の延長やバージョンアップでも良いだろうし、リタイヤに向けて別のライフスタイルを探るのも良いだろう。それはむしろ普通の発想で、予定調和の世界でもある。
全く違う価値観の人生を思い描こうとしてみると、意外とそれが難しい。
先ほどあげたようなたくさんの注釈が邪魔をする。岩のように固まっている人生観や価値観から生み出される想像力には限界がある。

固まった価値観というのは、完成して描き残しや余白がない絵のようなものかもしれない。想像力を駆使して妄想を描くには、思念や思考の余白部分や描き残しが必要なのだろう。そこには新たな構想が必要なのだ。
勝手な荒唐無稽でもいい妄想を描こうとしても、意外とできないものである。富豪になって豪遊するとか、そういう凡庸なものでないものとなると、さらに難しい。

難しい言い回しになってしまった。
素直な自分の願いを描くのは意外と難しい。
自分の気持ちに嘘をつくから。
先に書いた注釈のような邪魔が入って。

自分のことをよく省みないと何を願っているかも見えない。

やりたいことというのが、営利になっていたり、ステイタスや評価と繋がっていたりということがかなりある。
見えない時は、無意識や無我夢中を探るといいのかもしれない。
損得や世間体などを忘れて、ついやってしまうこと、自然に手をつけてしまうこと。

あれやこれや欲望は湧いてくる。
その中から、自分の気持ちに聞いて絞る。
なぜ絞るかというと、人生残り少ないから。
これも若い時と異なる重要なこと。
取捨選択。

ということで。

世界を駆けるVisual&Sound Artistとして希望を各地に届ける

という理想を描く。

え、これまでと一緒じゃんて?

その形はこれまでの既存の美術作家やミュージシャンと違ったもので思い描きます。
ま、妄想ですから細かいことは突っ込まず 笑

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