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自分の息づかいだけの解放される場所へ、再び。



30数年前に礼文愛が生まれた場所へ行きました。
その時は確かサラリーマンだったはず。
鬱屈する日々からの脱出で、ここはまるで天国のように感じました。
今はそういう鬱屈はないから、同じような気持ちにはならないかもしれない、
そんな想像もしながら来てみました。
記憶とは全く同じではないけど、そうそうこんな感じ、やっぱりこの風景好きだなぁと思いました。

どこまでも笹原と草原が広がる
タルコフスキー的な荒涼感も

緩やかな丘が続き、そこは見渡す限りの草原。
所々に木立があり、心細いくらい頼りなげに電信柱が並んでいます。
そんなイメージあったっけって聞かれると困るけれど、自分の中ではタルコフスキーの映画の中にいるかのような感じ。
あるいはワイエスの絵の中とか。

なだらかな草原が続くのは、本州の高原などでもありますが、ちょっと目を横に向ければそばに海があるというのが島ならでは、そして人家がほとんどないところというのは人口密度の低い北海道の道北ならでは。

島ながら北海道的な広がり

最近知ったのですが周氷河地形というのがあって、宗谷あたりと礼文の北部にしかないそうです。なだらかな山地とU字型の谷は、道北特有のだったのです。

そして厳しい気候のために樹木が育ちにくく、さらに人為のための伐採もなされました。
加えて、礼文では明治期に山火事があり、山林がかなり焼失したそうです。それもここの独特の風景の一因のようです。
この風景は他にない無比な風景なのです。

天使の梯子
高原のようだけど海がすぐそこに



西日本にいくと、森の緑の迫力に圧倒されます。我も我もと生きようとする競争と生命感がむせかえるようです。
それに比べると北国の森は、その環境で生き残れるものが生きているという感じ。
草原は一層その感が強く、過酷な環境に耐えて逞しく生きていると感じます。


独特の山容も氷河の影響か

都市では人口密度が高く、どこにいても人の気配がします。人影がなくてもその空間はデザインや設計がなされていて、誰かの意識がそこに流れています。
それは必ずしも高品位なものとは限らない。
営利や効率、あるいは妥協、混沌といったそういう意識に包まれています。
都市が疲れるのは物理的な人口密度だけではなく、そうした意識の密度でもあります。

轍と電柱が人の気配をかろうじて感じさせる

ここには人はいない。
人の意識も薄い。
耕作地でもなく土地利用の意識も薄い。
樹木も少ない。
かろうじて、笹や冷涼に強い山野草が生き延びています。
その命に支えられて鳥や小動物が生き抜いている。
私はそういう厳しめの環境の北方の土地の風景が好きなのです。


開放的な広がりがあって、生命感が希薄で、人の気配もない。
過酷な環境で静かにひっそり生きる動植物がいる。人工的な物音がしない。

こういう場所にいるとすごく解放されます。

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