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「箸置きと黒い本」 わたしの住んでる良い町は〜西荻窪のこと 


体調を崩して、始めたばかりの体操のレッスンを休んでしまった日。夕方にベッドからようやく抜け出して、駅近の西友まで日用品を買いに行った。  
土曜の夜に、住んでいる西荻窪を特集するテレビ番組が放映された。その翌日の日曜の夕方だけれど、ふだんとあまり変わらない人出に見える。いつものようにほどよい賑わいで、人々が小さな路地をゆっくり歩き、立ち飲みバールや、居酒屋「戎」で酒を飲んでいる。

 鈍痛の続く腰と重苦しい胃のご機嫌を伺いながら、わたしもゆっくり歩く。暖かい陽ざしがこぼれる、気持ちのいい晩秋だ。南東の薄い青空に、淡い輪郭の白い満月が浮かんでいる。
 西友で安売りだったティッシュの白い箱を2つと、台所用の漂白剤、おむすびを包むアルミ箔をカゴに入れ、セルフレジで会計をすませると、駅とは逆の裏口から出た。探しものがあって、久しぶりに雑貨屋をのぞいてみる気になっていた。

線路に沿った細い道を歩く。長らく休んでいた花屋さんが営業を再開していた。店に入るとふわっと草のよい香りがする店。その先の、いつも閉まっているからガラス窓に飾られた透明な石の指輪をガン見する、手作りアクセサリー店も今日は開いていた。お客さんが3人ぐらい入って、じっくり買い物をしている様子。韓国の書籍なども並ぶ小さな書店「忘日舎」が無事営業していることに、ほっとしながら前を通り過ぎる。
ピザ屋、トンカツ屋、額縁屋、蕎麦屋……洋食屋の角を曲がると、古本屋の「音羽館」がある。その先に古着屋。十字路の角のイタリアの輸入食材店の角打ちで、男がふたりワインを飲んでいる。この店舗はその昔、戦争ごとに作品が分類されたりしている非常にマニアックな品揃えのレンタルビデオ屋だった。
十字路を右に折れると、駅方向へのバス通りだ。少し歩くと「FALL」がある。

 FALLは、器からCDからアクセサリーから文房具から、様々なものが雑多に並ぶ店。古いもの、新しいもの、作家もの、ガラクタ、店主の感性に引っかかった品々が集まっているのだと思う。期間限定でいろいろな作家の展示をするギャラリースペースもある。
音楽家&陶芸家の工藤冬里(店主がファンなのだろう)の器が並ぶ棚の下の下の下あたりに、文結びの形の箸置きを見つけた。ひとつ500円。探していたものではないけれど、これを2つ買うことにした。

 レジへ持っていく。横の机で作業をしていた物静かな男が、机の引き出しから一枚の紙切れを出し、広げて見せる。
「藤原さんと言って、もう、82歳になる作家さんのものなんですよ」 
 紙切れは、箸置きの作者である藤原正夫さんの略歴だった。それをまた折りたたみ、買い物に添えてくれるらしい。「へえ、82歳のかた」と言いながら、わたしは興味を持って箸置きのあった棚へ戻る。ほかの作品も見たいと思って。
するとまもなく「お品物です」と、背後から小さな紙袋が差し出された。渡しに来たついでに、と言う感じで店主が説明する。
「このあたりが藤原さんのものです。つくばに桜窯という窯を構えて、息子さんとふたりだけで作っているんです。もっとも息子さんは反発して、磁器ではなく陶器を作っているんですけど」
そう言って、ほっそりとした40がらみの店主は薄く笑った。
「桜窯の桜は、このピンク色。磁器でこの色を出すのは難しいそうで、自分の作品の特徴だから、それで桜窯と名付けているようです」
箸置きとは違う棚に並んでいる桜色の器を、わたしはさっきよりもよく見る。可愛らしいけれど、でもやっぱり、桜色はうちの食卓には合わないな。桜色の隣にある、釉薬で渋い茶緑の縞の出た小皿を店主が撫でている。それはわたしも、箸置きを見つける前に惹かれた器だ。
「それ、いいですよね」
「これ、いいんです」
 客がレジの前に立ったのを見て、店主がそちらへ行く。もう一度、渋い茶緑の皿をしげしげと見てから、元に戻して、わたしは店を出た。

知らない土地で、知らないおじいさん作家が桜色の器を作っている。親に反発して、つるんとした肌の磁器を作る息子とふたりで。
この町にいると、わたしは遠いところへ思いを飛ばすことができる。ひとつ500円。ふたつで1000円の買い物をして、なんだかそれよりも広がりのあるものを得た。特に、気分。広がりのある気分を持って、家に帰る。 

 家人が留守で、夜もひとりだった。不調の身体をいたわる気持ちで、早々にベッドに入る(早寝はいつものことなのだけれど)。持ち込んだのは、読みかけの黒い小さな本。もう少しで読み終わってしまうのが惜しい。
ツイッターのタイムラインに時おり流れてくる、海風と草原の中に馬が気持ちよさそうにいる風景が気になっていた。わたしがフォローしている誰かが、南の島で馬と暮らすそのひとをフォローしているのだ。

先週だったか、駅の南側の「信愛書店」に久しぶりに入って、ツイッターのそのひとが馬との本を何冊か出していることを知った。へえ、と思って手に取ったのは、今年の春に仕事で出かけた隠岐の島で、わたしも馬との不思議な時間を過ごしたから。動物にはまるで興味がなかったのだが、馬のほうから近づいてくれて、すっかり気になる存在になっている。
馬語について解説された実用向き(?)の、イラスト入りの本を買おうかな、と思ったら、隣にある黒い小さな本に惹かれた。

  くらやみに、馬といる 
  河田 桟

馬の黒いシルエットが浮かぶ黒いカバーに、小さな白い文字でタイトルと著者名がある。タイトルが気になったし、1冊しかなかったから、この本を買うことにした。初めての著者なので、自分と合うかわからない。好きなら、在庫のある違う本をまた買いに来ればいい。
と思えるのは、実は恵まれたことなのだと、あとで知った。

河田 桟というひとは、与那国島で馬と暮らし、文章を書き、写真を撮り、イラストを描き、カディブックスという出版社をひとりでやって、ひとりで本を作っているらしい。カディとは、ツイッターで見ていた彼女の馬の名前だ。そんな事情だから、カディブックスの本はどこでもすぐに買えるものではなかったのだ。河田さんの本、カディブックスの本が何冊も並んでいる信愛書店が特別なのだ。これもまた、西荻窪という町に住む役得。

くらやみに、馬といる。強い光がなく、輪郭のぼやけた視界の中では、小動物の動く音や、雨の出すにおいや、じわっとくる湿気や、月の瞬きの変化や、風の流れがよく感じられる。感じるというよりも、それらと自分との境がなくなる感覚。自分の内側と、自分の外側との境もあやふやになる。あやふやは恐ろしさを表す言葉ではなく、むしろそちらが本来みたいな気がする……。くらやみで馬と過ごしたわけでもないのに、本に書かれている世界は、わたしにも身に覚えがあるような。まるで自分のことでもあるような。

 『くらやみに、馬といる』には、河田さんが与那国島で馬と暮らすことを選んだ、理由が書かれていると思った。具体的な経緯が書かれているわけではないけれど、この本を読んで、わたしは彼女のことが少しわかった気になった。
 
本の中の、どきっとした一節。

でもくらやみの景色を見たあとでは、あかるさによって見えなくなるものがあるとわかっている。光が世界を分けてしまった。

どきっの正体は、たぶん寂しさ。でも、この文章を書いている今は、こう思えてきた。世界を分けない光のことを、わたしは書きたいんだ。



 

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