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問診の正義と溝

短時間で診察し多数の患者を診る方針の先生と、”丁寧”に”精神療法的”に時間をかける方針の先生との間の、正義の溝は深い
長く時間をかけると、結局少数の患者しか診察できず、初診の待機が長くなる。これは、受診している患者にとっては利益があるが、不可視化されている待機患者の利益を無視ししているという批判。
一方で、短時間で診察が終えられるのは難しい患者が治らずに診察から離れるからで、簡単な患者しか診ずに金儲けしているという批判。

私は生活史は結構聞く方なので、初診の時間は長い。必要経費と思っている。特にポリシーのない若いころからなので、趣味とか自己満足だろう。
予診を取ってくれる研修医とか学生によく話すのは、問診の目的について。
大抵は診断のために問診をする。
「その人がどんな病気か」よりも重要な問いがある。それは「その病気になってるのはどんな人か」。
ヒポクラテスの金言である。この言葉まだ残っているのは、おそらく私たちが忘れっぽくて、人を診ることをすぐやめてしまうからだと思う。
人を診るとは何かといえば、ナラティブとして把握するということ。彼ら彼女らがどのような状況で何を思い、それが次の出来事にどのようにつながったのか。あくまで主観的で、n=1の、前後即因果の誤謬を体系的に濫用した非科学的なストーリー。症候の有無という二分法の羅列ではそぎ落とされてしまう過剰な解像度のなかに、人の歴史が埋葬されている。

だれもが物語を持っている。しかし、本人は subject (物語の主体であり、主題)ではあるが、その物語を語る作者になることはできない。私たちは、彼らの歴史を聴く中で、その物語の作者の一人になる。作者の主観が混じり、聞き手によって物語は異なってしまうから、全く非科学的である。

ここで勘違いしてはいけないのは、患者さんが語ることを目的にしてしまうような診察はおそらく二流なのである。一時的に、あるいは傷ついているときには、話すことを目的に外来を訪れるかもしれない。最も良い診察は、「
ちょっと面倒だけど薬も必要だし、行ってやるか」ぐらいになるのがちょうどよい。

「長時間診るほど恩恵的であるというのは医師のうぬぼれである。さっさと終えてもっと楽しいことに時間を割りふりたいのが良い患者の考え方」
「精神科医ので自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがいのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない」

それでもやはり、人と出会うところから、始めたい。でも再診は5分か10分でご勘弁を!

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