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ルックバック、Eテレ特集、アリエネ


二つ出来事を通じて、気が重くなっています。

ひとつは、藤本タツキの漫画、ルックバックの修正です。

https://twitter.com/shonenjump_plus/status/1422029631507427331

もうひとつは、ETV特集「ドキュメント 精神科病院×新型コロナ」での精神科病院協会山崎会長の発言です。

https://twitter.com/emDA/status/1421729788985675782

要は、精神疾患と暴力との関係と、それに伴うスティグマというテーマがあります。

精神疾患の代表的なものに、統合失調症があります。

ルックバックは、京都アニメーション放火殺人事件の追悼メッセージとしても読まれ、明示されていないものの、統合失調症をモデルとしたような精神病のステレオタイプをもつ犯人が描写されていました。

最近は認知症になって入院する人も増えてきたようですが、古い精神科病院に長く入院している患者はたいていこの病気です。”長期入院”の問題がやり玉にあがるとき、暗に対象としているのは統合失調症の患者さんたちだったりします。

20年近く精神科の臨床医をしていますが、精神科医で統合失調症の治療を厭う医師に会ったことはありません。この疾患を避けては仕事ができない、ということもありますが、多くは統合失調症の患者さんの性質によると思います。彼・彼女らの大部分は、控え目に贅沢をせず慎ましく穏やかに過ごしています。長時間続く外来診療では、彼らの診察は、診察する側にとっても”癒し”ですらあります(従順だったり受動的だったりする場合、陰性症状といわれるかもしれませんが)。

だから、患者さんの実情から離れた、社会生活の妨げになるようなスティグマは、可能な限り減らしていきたいと考えています。

しかし、精神疾患と暴力は容易に連想されてしまいます。この話題に触れることすら、忌避される面もあり、スティグマの助長は避けたいのですが、これまでに精神疾患と暴力はどのような関連があった臨床経験を踏まえて、考えてみたいとおもいます。

まず精神疾患の影響下に暴力をふるった場合の処遇について整理します。

精神疾患による犯罪該当行為の処遇

 ネットの言説で、このようなツィートが見られました。
https://twitter.com/Drmitsumitsu/status/1422463490531360770
 このツィートでは明らかなバイアスの余地があります。というのは、精神科医は基本的には精神科患者しか診ないから、犯罪率が多いか少ないか比較するとき対照となる健常者の犯罪者と出会うことはほとんどありません。例えば健常者の犯罪であっても、示談となるなどして起訴されないケースもありえますが、刑務所など矯正施設に勤務するなどしていない一般の精神科医が、そのようなケースを目の当たりにすることは多くなく、比較対象とすべき精神疾患を持たない健常者の犯罪について直接的な経験を持つことは一般の精神科医は少ないはずです。だから、事件とされずに(犯罪とされることなく)精神科病院で治療を受ける患者さんがまれならずいるということをもって、犯罪率が多いかどうかは言うことができないでしょう。

  精神科医が見る、精神疾患を持つ人が精神疾患の影響下に犯罪に該当する行為があった場合の処遇について、暴力を例に整理します。
 一般的には、誰かに暴力などをふるったとき、それが即座に犯罪とされるイメージがあるかもしれませんが、実際はそう単純ではありません。犯罪は、裁判で判決を受けるまでは、犯罪ではないのです。警察に逮捕されたとき、罪の「容疑者」であって「犯罪者」ではないのです。例えば、犯罪白書の「精神障害のあるものにおける犯罪」でいう、犯罪は、裁判で有罪の判決を受けたことを言います。
警察に身柄をおさえられた時の処遇も、「逮捕」と「保護」があります。
一般的には、犯罪に該当する行為があった場合に犯罪とされるには、警察に逮捕され、検察に送られ(送検)、検察が事件としてとして成立すると見なされれば、起訴され、さらに、裁判所が起訴状を受け取って裁判が起こされ、犯罪を犯したことが認められれば、「犯罪」が成立します。これらの手続きは刑法、刑事訴訟法による。
精神疾患を持つものに犯罪に該当する行為があった場合、逮捕されるとはかぎりません。警察官職務執行法3条による保護になる場合があります。「逮捕」でも「保護」でも、精神障害のために自傷他害の恐れがある場合には、精神保健福祉法23条に基づく知事への通報により、措置診察を受けるルートがあります。措置診察で、精神保健指定医2名の診察によって必要性が認められれば、知事の命令による措置入院となります。(措置入院の手続きを簡略したものに、緊急措置入院がありますが、入院時間が72時間に限定され、その時間内に、措置入院への移行手続きとることになります)。
措置入院の手続きと、刑法などによる手続きは並行して行われることもありえます。
さらに、犯罪に該当する行為が重度の場合、医療観察法による手続きがあります。医療観察法の適応される重大な他害行為は、殺人、放火、強盗、 強制性交等、強制わいせつ、傷害の6行為となっています。医療観察法の手続きをとるか判断される分岐点は、2点あります。検察が起訴する段階で不起訴とする場合と、裁判で無罪となった場合です。それぞれ医療観察法の適応があると判断された場合にこのルートに乗ります。医療観察法のルートでは、その適応があるかどうか、鑑定入院などを経て審判が行われ、実際の適用が決まります。
大雑把に言うと、医療のルート(精神保健福祉法)と司法のルート(刑法・刑事訴訟法など)があり、ここに医療観察法のルートが加わっている。

精神疾患を持つものによる何らかの犯罪に該当する行為があった場合、警察の時点で、医療ルートに回されるかもしれないし、検察、裁判の時点でも医療ルートに回ることがあります。この場合ルートを変更するのは司法側(警察・検察・裁判官)です。医療ルートに乗って措置入院したとしても、退院後に司法ルートに乗ることもありますが、これは、措置入院なった時点で退院後逮捕すると警察が決めていた場合になります。医療側の判断で、司法ルートの乗ることはありません。

司法から医療へのルートは複数あります。一方で、医療から司法へのルートはありません。例えば院内で起きた“新たな事件”について、警察に通報することはできます。しかし、措置入院になった人を司法ルートに乗せるような機会は設けられていません。

司法から医療ルートに乗せかえる“動機”として、司法側にも、“起訴便宜主義”と批判されるような、有罪にできそうにない容疑者は起訴しない傾向があります。もちろん冤罪を防ぐ意味では正しいのかもしれないが、精神疾患があるだけで、心神耗弱などのために有罪に問えない可能性が高いと判断され、司法ルートに乗せないのではないかなどと勘ぐってしまいます。
精神科医療は、治安を目的としているものではありません。しかし、Eテレ特集で山崎会長が述べたように、治安の一翼を担わされているようにも見えます。

精神科病院側に勤務する身から見れば、犯罪とされない、精神科の患者さんが多い気がするというツイートも、臨床的な臨床的な感覚からすれば分かる気もします。しかし、繰り返しますが、頻度の大小を言うときに用意すべき比較対象としての健常者の犯罪を精神科医が経験することはほとんどないため、バイアスがあると考えたほうが良いと思います。
では、統計からわかる範囲での精神疾患を持つ者の犯罪率はどうだろうか。

犯罪率の推測

ウィキペディアの精神疾患の犯罪率についての項は、おおむね犯罪率が低いことを提示しているが、一方で、殺人と放火に関しては精神障害者で比率が高いことを、このサイトを引用して言及していました。そこで、このサイトの犯罪率の計算を、令和2年の数字で、念のため確認がてら再計算してみます。
・令和2年版犯罪白書第9章から、4-9-1-1表 精神障害者等による刑法犯 検挙人員(罪名別)を抜粋。      http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/67/nfm/n67_2_4_9_1_0.html
・令和2年版障碍者白書 参考資料 障害者の状況から、外来の精神障害者数を障害者の母数として採用。ただし統計は2017年。389万1千人。
・人口推計から、2020年1月1日の概算値を抜粋。12602万人。
https://www.stat.go.jp/data/jinsui/

外来の精神障害者数を障害者の母数にすると、実際には外来通院していない患者さんもいるなど母数を少なく見積もることになり、精神科疾患の犯罪率を過大評価しするかもしれません。また元の統計は検挙数であり、厳密には、裁判で犯罪と認定される前の数です。このあたり、既存の統計から計算する上での限界はあります。

結果はした表のようになりました。

犯罪白書令和2年第9章 精神障害者の犯罪

限界のある中での計算結果とですが、全体として精神疾患を持つ者の犯罪率は低いものの、殺人と放火は精神疾患を持つ犯罪者の中では比率が高く、健常者の犯罪率を上回っていました。wikipediaの記載は令和2年でも同様の結果でした。

これをどう考えたらよいでしょうか。

私が懸念するのは、精神障害の犯罪該当行為があった場合の処遇に関して考えると、殺人と放火は、犯罪としてのインパクトが大きいために、警察が保護・逮捕した時点の判断で、医療ルートに乗らず、司法ルートに乗っているのではないか、ということだ。
というのも、例えば、一般的な医療でも、治療を拒否する患者の同意能力を検討する場合、治療が致命的な疾患の場合はより厳密に同意能力が問われ、軽症である場合には同意能力が問われにくい傾向があります。これに似た構造があるとするなら、軽微な犯罪ではわざわざ司法に問うことはせず、重大な犯罪では、その同意能力について裁判で判断する方向に進むと、考えられます。
一方で、家族内での程度の軽い暴力や額の小さい万引きなど窃盗などは、健常者であっても罪を問われないこともあるでしょう。
この辺りの司法にかかわる感覚は、全く素人なのだが、犯罪が重大である場合には、心神耗弱とされて無罪になる“リスク”を負っても、起訴するという心理が働いていないでしょうか。

つまり、殺人や放火における精神障害者の検挙率の高さは、バイアスの強い影響下にあることを疑っています。

もし、精神障害者であっても、重大犯罪ほど有責(有責性を問える)と判断される傾向が強いとすれば、二つのことに、注意しなければなりません。ひとつは、重大な罪を犯した精神障害者が十分な治療を受けられない可能性である。重大な罪を犯した人が精神疾患とみなされなかったという情報は、スティグマを増悪させない意味では良いニュースですが、精神疾患が見逃されていれば、患者の不利益は大きい。二つ目は、殺人と放火が精神障害者で特に多いわけでない可能性です。司法ルートに乗せる際のバイアスによって、犯罪比率に差が生じているだけかもしれません。

次に、医療のおける他害の状況について考えてみます。令和元年度の衛生行政報告例から、同年度中の新規の措置入院者数を調べると、7345人だった。

措置入院が、どのような行為によって決定されているか、その内訳についての統計は見当たりませんでしたが、国立精神・神経医療研究センターの精神障害者の地域生活支援を推進する政策研究における分担研究、「措置入院者の実態把握と必要な医療密度に関する研究」によれば、研究を実施した9つの病院での措置入院のうち、対人他害によって入院になった患者は77.3%であった。

(精神保健福祉法では、警察官などからみて、「自傷・他害のおそれ」がある場合、措置入院を要請するため警察官などが県知事に通報することができます。「おそれ」という用語がある場合、実際には他害行為が行われていないことを想定するかもしれませんが、臨床で診察する場合には、すでに他害行為が行われている場合が多い。まだ何も起こっていない段階で身柄を抑えることに対する、人権を考慮した警察側の配慮があるためと思います。)

さて、そうすると、対人的な他害行為で措置入院になったのは、

7345×0.773= 5677.7 (人)

と推測されます。刑法犯で検挙された精神障害者など1,977人のおおよそ2.8倍です。この数値だけ見ると、精神科病院が治安を担わされている、という精神科病院協会会長の発言も、否定はできないように思いますし、バイアスが大きいと思われた、ツイートもそれほど間違っていないように思えます。

今回見た統計には暗数があり、実態を反映できているか疑わしい部分もあるが、精神疾患は犯罪にかかわる司法手続きにおいて、特殊な位置を占めていることは言えるでしょう。

「精神疾患の犯罪率」における「犯罪」とスティグマ

精神疾患の他者への危険について、スティグマを考えるとき、スティグマを減弱するための根拠として挙がるのは、「犯罪率」が低いことです。一方で「他害率」に関する統計はみあたりません。

ところで、犯罪率が低いことは、精神疾患と危険を結ぶスティグマを減弱するでしょうか?
現状、犯罪率が低いにもかかわらず、スティグマが減弱していないとすれば、精神疾患が恐れられるのは、動機における「わけのわからなさ」でしょう。

行きかう見知らぬ人が自分の噂をしている、テレビでも自分の悪口を当てつけのように言われる、得体のしれない組織に狙われている、殺されそう。実際あってもおかしくない噂・悪口から荒唐無稽な本人に対する殺害計画まで、様々な妄想を臨床では見かけます。たとえ発生率が低くとも、わけのわからない理由で暴力にさらされるのなら、それは恐怖につながり、スティグマを生むでしょう。
注意しなければならないのは、妄想などの精神病症状に基づく加害は、「被害的加害」が多いということです。これは、攻撃しようと思って暴力に至るのではなく、何らかの被害を受けていると感じていて、それに対する窮鼠の反撃として加害が起こるということです。このような暴力は、医療従事者としてそれほど恐ろしくありません。治療がうまくいけば、良くなることがわかっています。
患者自身は、妄想や幻覚のような病的体験によって、苦しい思いをしています。病気になろうとしてなるわけではありません。病の被害者は、つねに患者自身であるのです。いま、健康を享受している人であっても、罹患するリスクは平等にあります。

ここで再び「ルックバック」に戻ります。ネタバレです。
犯人が病を持つことは、犯人の罪を免責することにつながります。それは、主人公藤野が、犯人に対して個人的な恨みや憎しみを持つことを妨げます。藤野が恨みや憎しみから遠ざかることによって、自らも免責されることにつながるのではなしょうか。自らのヒロイックな活躍によって京本を助けられる夢想は、過去のどのような選択によってたどる世界線であっても、藤野も京本も漫画を描いていただろう、という、希望的な解釈につながります。それは、自身を免責し、藤野が再び筆を執る動機となります。
修正によって犯人像は何ら属性を持たず、個人の責任においてのみ凶行に至ったように改変されました。「大きな主語」のダウンサイジングによって、偏見に巻き込まれる人は減ったかもしれませんが、同時に、藤野の受容に対する必然性も失ったように見えます。

修正によって失われたものも大きいように思えました。

精神疾患と犯罪を容易に結び付けない表現は政治的に正しいです。京アニ事件では、患者団体からも安易に精神疾患と犯罪を結び付けないようにと声明が出されました。また、患者の人権団体などからも、容疑者が起訴された事実をもって精神疾患ではないとする記事が書かれています。ただ、現実には精神疾患を持ちつつ犯罪に陥る患者が存在し、社会制度として医療に管理させるルートがあるにもかかわらず、スティグマを助長しない目的のために、その存在に目をつぶろうとすることは、精神障害者でありかつ犯罪者である人をより強いスティグマとして分離することにならないでしょうか。うまく分離できたとしても、犯罪に該当する行為を引き起こす精神症状を狂気とよぶとすれば、狂気を精神疾患に二重に写して見るとき、精神疾患に対するスティグマが還流します。分離はスティグマをなくすことができない。分離されたどちらかにより強いスティグマを刻印します。
ラベルを張るのは簡単だが、きれいにはがすのは難しい。病気か健康か、有責か無責か。あるいは司法か、医療か。二分法的に分類しラベル張りを続ける限り、スティグマは生じ続けるでしょう。ラベルを否定するわけではありいません。誰かを支持するには、何らかのしるしが必要だから。それでも無用なラベルは貼り付けないほうが良いと思います。

スティグマの解消に向けた医療の在り方

現状を嘆いているだけでは、解決しません。スティグマの解消に向けて我々になにができるでしょうか。

なぜ、精神疾患と犯罪は処遇・制度として結びつきやすいのでしょうか。

アリエナシオン(aliénation)という仏語があります。疎外と精神錯乱、狂気という意味を持ちます。アリエネ(aliéné)は”狂人”です。疎外された人です。エイリアンでもあります。

社会のマジョリティの持つ規範から、外れやすい集団に対する処遇として、隔離というのは安価で便利な方法です。“理性的”な社会になじまない人々を、“非理性”として隔離する。この方法は、フーコーによれば17世紀から続いています。
社会から隔離されるものとして、伝染病があり、隔離によって患者が減少すると、“非理性”が隔離されるようになりました。ここでいう“非理性”は隔離されるもの=アリエナシオンと呼ばれ、社会的秩序を乱すものを指しました。非理性のなかには、貧困、犯罪、道徳的な問題(無宗教)などが無分別に含まれていて、今でいう精神疾患も同じアリエナシオンに扱われていました。この古典主義時代における非理性から、それぞれ精神疾患、犯罪、貧困などが分割されてきました。アリエナシオン=狂気の系譜として精神疾患と犯罪が、それぞれ精神科病院と刑務所という隔離の中に現在でも残っているのでしょう。私たちの社会は、犯罪と精神疾患を、狂気=疎外される人として、ごくごく自然な態度で結び付けてしまいます。アリエネは、健全で理性的な”我々”と、本質的な違いを持たないにもかかわらず、異質なものとして”疎外”されます。


精神疾患が社会的秩序を乱すことがあるとすれば、それは“疾患”であって、患者ともに治療していく必要があります。精神疾患の外在化。この共同作業において、患者だけが隔離を継続されるという不利益を享受し続けなければならないというのは、終わりにする必要があります。

病院への隔離をやめる。精神科病床を減らす。もう数十年言われ続けてきて、分かり切ったことなのにすすんでいません。
たいてい言われるのは、受け皿がないことです。

この受け皿の考え方が、おそらく間違っています。

受け皿を考えるときに、たいてい引き合いに出されるのは、グループホームなどの居住施設です。あるいはデイケアなど“昼間の居場所”なども必要とされます。ただし、これらの施設は、精神科病院より安価に運営できるように制度設計されています。確かにこれらは必要なのだが、十分ではありません。さらに、現状では建設反対運動も容易に起こります。反対運動を乗り切って、うまく設置できたとして、その場所に安心して住めるでしょうか。結果として、軋轢を避けた、片田舎に立地します。そのような場所で、障害を持つ人が雇用を持てる機会は少なく、病院を出てもなお社会からは遠く離れて暮らしていたりすます。また、忘れているかもしれないが、多くの患者さんは、実は自宅に戻りたいのです。

つまり、現状の施設移行を中心とした方法論は、安価な隔離手段である精神科病院の、さらに安価な隔離です。


では、何が足りないのでしょうか。
足りないのは、精神科医療機関のアクセシビリティであると私は思います。困ったときにすぐ受診できず、いよいよ病状が悪くなって事例化してから医療につながる。この体制では、周囲が困ることが、受診につながる必須条件になってしまいます。アクセシビリティについては保険診療の整備(精神科救急入院料など)もあるが、改善の決め手にはなっていないように思います。

この状況を改善するヒントはオープン・ダイアローグ(OD)にある、と考えるようになってきました。「これまで薬が必要だった、統合失調症の治療が対話だけで解決できる」などと言われていますが、私はこれを頭から信じているわけではありません。OD特徴としてよく紹介されるリフレクティングという対話の手法は、システム論的家族療法に由来するし、この手法について統合失調症に対する効果を示唆するいくつかの報告はありますが、単独での目覚ましい効果が確認されたわけではありません。対話だけで治るわけではないと思います。


ただしODを提唱しているケプロダス病院のような医療提供体制は、期待に値すると考えています。ODの「7つの原則」の一番目に、「即時対応」があげられており、要請があれば24時間以内にミーティング(複数の治療者と患者の対話の場)を持つということが原則になっています。

これに関連して、ODの提唱者の一人であるSeikkulaの論文を読むと、
統合失調症に対する平均入院期間の短縮、服薬を必要とする患者割合の減少、再発率の低下といった、ODの良好な予後の理由について、未治療期間(the Duration of untreated period; DUP)の短さを挙げています。DUPは精神科医にとっても、それほど身近な用語ではありません。私が知ったのも、臨床医になってしばらくたってから、精神科に回ってきた初期研修医の症例レポートで、予後良好因子として挙げられて知った程度です。カプラン臨床精神医学テキストにはだいぶ前から記載があるから、ほぼ教科書レベルの知識だが、残念なことに、精神科臨床では、この因子にアクセスすることは難しいとおもいます。DUPの短縮には、発症してからできるだけ早く治療につなげる必要があるが、精神科医は受診するまで待つことしかできないからです。だから多くの臨床医はDUPの短縮に注意を払うことはないかもしれません。
一方で、ODでは、患者さんの自宅を治療者が訪問するアウトリーチが基本である。しかも(原則通りであれば)要請から24時間以内にミーティングが行われます。この医療提供体制がDUPを短縮し、統合失調症の予後を改善しているというのは、十分信頼できる考察と考えられます。
むろん、対話の手法が無意味というわけではありません。リフレクティングは、押し付けることなく治療を提案できる、有効な手法であることは間違いありません。患者の話すことに興味と敬意をもって十分に耳を傾けるという姿勢は、患者のとの信頼関係を醸成しやすいでしょう。自分が病気だと思えず、猜疑的になっている患者さんに治療勧める上ではよさそうな手法と思います。そして対話から埋まる相互理解は、スティグマを軽減し、患者さんを受容する素地を作るでしょう。

しかし、もし統合失調症の予後を改善するとすれば、対話の”手法”ではなく、”臨む姿勢”でもなく、対話を提供する”体制”こそが、症状を改善する、と思います。

そして症状が軽症化し、地域に生きられるようになって、結果として精神疾患が社会から目隠しされることがなくって、初めてスティグマが薄れてゆくでしょう。

「そんなによさそうならすぐ始めればよい」と言われそうですが、もちろん簡単ではありません。たいていの精神科医療機関の外来は平時であっても1か月くらいの予約待ちがあります。そして診察時間は、初診30分、再診5-10分というのが限界です。毎回医師が訪問する必要はないとはいえ、ケプロダス病院と同様の体制を一から作るには、より大きな資金が必要だし、資金を動かすためには、小規模であっても根拠となる実績が必要です。おそらく一度体制が構築できれば、少なくとも統合失調症は軽症化することが予想され、運用にそれほど資金はいらなくなるはずとは思いますが、初期費用はどうして大きくなりがちです。
安価な”隔離”に頼らない、効果的な精神科医療の実施には、社会がこの分野どのくらい資本を投入できるか、というコンセンサスにかかっています。



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