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Goldwater ruleと精神科医の立場


著名人を診察することなしに診断してはいけない、というGoldwater rule、病跡学ではどう考えているのだろう。と、思っていたら、病跡学会のレポート記事にコメントが。


精神病跡学というのは、乱暴に言うと、文学や絵画などの芸術作品の作者について、作品を解釈することで、作者自身の病理性をあきらかにする学問。本人を直接診察するわけではないのに、時に作者に精神疾患があったのではないかと推測してしまうから、ゴールド・ウォーター・ルールに抵触するかも、と考えられます。

米国精神分析学会は、「ゴールドウォーター・ルールには、とらわれる必要がない」という見解が紹介されていたので、一応調べてみました。精神分析学会員むけのemailが公開されています。
https://apsa.org/sites/default/files/Harriet_Associaiton_email_July_6_17.pdf

このメールがSTATというサイトでクローズアップされ、それに対して、米国精神分析学会はAPAのルールを無視せよ、というわけではないよという、返答記事がこちら。
https://apsa.org/content/american-psychoanalytic-association-statement-%E2%80%9Cgoldwater-rule%E2%80%9D

先の精神病跡学会のレポート記事でも大会長の言葉として書かれていたことだけれど、精神科医が、診察していない人の診断について語ることが倫理的に問題となるのは、精神疾患の診断がつけられた人にとって不利益になる、と考えられているからですね。つまり精神疾患に対するスティグマがあるから、問題になるのです。

なので、ゴールド・ウォーター・ルールの是非には、精神疾患は隠されるべき個人情報=スティグマであるか、という問題を含むと思います。精神疾患に対するスティグマがなくなることを願います、と書けると”きれい”に記事が終わりそうだけど、そうもいかない。

そもそも”スティグマがなくなる”こと。ある?

ペシミスティックですけど、おそらくスティグマなくならなそう。なぜなら


差別は精神疾患などの言葉より先に存在しているから。社会から排除したいとき、その理由として差別されるべき人という一群のシニフィエが先にあって、それらに犯罪や精神疾患などのシニフィアンがあとから賦与されているように思います。端的に言えば、犯罪者だから差別されるのはなく、”社会”が差別したい人たちのことを犯罪者と名付ける。精神疾患だから差別されるのではなく、”社会”が差別したい場合にその理由として精神疾患を挙げる。この辺りの歴史的な経緯は、フーコーの”狂気の歴史”に詳しいです。

言葉狩りといわれるように、スティグマにつながる言葉を禁止したところで差別がなくならないのは、意味するもの(シニフィアン)より先に、意味されるもの(シフィエ)があるからですね。

シニフィアンとしての精神疾患が難しいのは、しばしば、社会への包摂もシニフィエに含むことです。例えば労働の免責としての精神疾患。精神疾患と診断されると、労働という義務からある程度免責されます。精神疾患と名付けられた人は、労働ができなくても、社会から排除されず、福祉の対象として包摂されるでしょう。つまり、労働が義務の社会にあって、働かない人は排除される可能性があるが、精神疾患の診断がつくと、排除を免れるということがよくみられます

しかし排除を免れた場合、働かずに暮らしていける人に対する社会的な嫉妬は避けようもなく起こる、と思うのです。”嫉妬”のようなネガティブな感情はスティグマの温床になるでしょう。労働の免責に対する嫉妬に基づくスティグマなくすとしたら、誰も働かなくても暮らしていける社会が必要です。そんな社会は未来には可能かもしれませんが。

スティグマを消し去ることができないとしたら、あとは、応援することしかできません。”弱者よ強くあれ”と(矛盾)。 

精神疾患に対する差別がなくなってほしい、と私が気軽に言えるのは、私の身分がある程度保証されていて、安全なところに立っているからかもしれれません。スティグマは境界で強く起こっています。弱いものがさらに弱いものをたたくとき、スティグマは鈍く光る。


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