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手の記憶

人生にはいい出会いがあるもんだ

1999年初冬、突然取材の話が飛び込んだ。
その人の手を見ることで、これまで歩んできた人生を垣間見ることはできないか?「手の記憶」と題し特集を組むことになったので、取材させてほしいとのことだった。

数日後、朝日新聞の大村美香記者が農園にやってきた。もちろん初対面。物腰やわらかくフレンドリーな印象。これまでやってきた農業の話をして欲しいという。

こんなことが記事になるのかなと思いつつ、なんとなく話し始めた。話すごとに質問が帰ってくる。なにか誘導尋問に引かれるように、つらつらと会話が弾んだ。ほこりだらけの薄ら寒い作業小屋で、外はすっかり日が落ちて気がつけば3時間が経っていた。なにか楽しいひとときだった。

2000年の年が明け、掲載紙が届いた。読んでいくうちに、熱いものがこみ上げてきた。
自分の思いをこんなに的確に、そして見事に物語にしてくれたことが、これまであっただろうか?
それから数年後、なんと偶然!共通の友人を介して一緒に酒を飲む機会を得た。

最近は、愚息の取り組みを記事にしていただくなど、大村さんとのお付き合いはいまも続いている。

(以下より掲載内容)

『手の記憶』 

白石好孝 「大泉 風のがっこう」創立者

(文) 大村美香さん

手を洗って家を出たはずなのに、つめの間に、薄黒い土がはさまっている。

夕方、練馬から池袋へ向かう西武池袋線。
いつも、指先を手のひらに押し込んでつり革を握った。黒いつめを見られたくなかった。

二十五歳のころだ。
自分の手を恥じていたことを、白石好孝(四五)は、いまも覚えている。



江戸時代から続く練馬の農家に生まれた。
幼いころから後を継ぐものだと言われて育った。

農業高校から東京農業大学へ進む。
農家の跡取り息子の道を真っすぐに歩んでいるようでありながら、心の底には迷いがあった。

周囲には次々と住宅が建つ。
父は必死で畑を耕していたが、野菜の市場価格は乱高下し会社員並みの所得は得られない。
割のいい仕事には思えなかった。

父の下でキャベツを作るが、身が入らない。
農作業を終えたあと、池袋や新宿へ出かけ、英会話や簿記の教室に通った。

保育園経営を考えたこともある。
法人設立の準備を進め、大学の通信課程で幼稚園教諭の資格を取り、保育士の資格もあと一歩のところだった。だが、園児が十分に集まる見込みが立たず、断念する。

「じたばたせず、しばらくは農業を一生懸命やろう」。気持ちの整理をつけた。結婚して三十歳になっていた。

東京には都市農業不要論が吹き荒れていた。
一九八〇年代、バブル経済のまっただ中だ。

東京に農家はいらない。
都会の農地は税金逃れだ。
都市の成長を妨げている。

そんな主張がまかり通っていた。

白石は、仲間たちと反論した。
「都市の緑を守っているのは農業ではないか」。
集会では、作業着にたすき掛けで、こぶしを振り上げた。

その一方で思った。
「われわれ農家も土に向かうだけで、周囲の人々に閉鎖的ではなかったか」。

都市の農業の役割を強調しても、農家以外の人たちに実感してもらえなければ、受け入れてはもらえない。



九一年、改正生産緑地法が施行された。
市街化区域内では三十年間の営農を約束し、農地を登録しない限り、宅地並みの課税を受けることになった。

白石は、一・五ヘクタールの畑のうち一・四ヘクタールを生産緑地として登録した。
経営を安定させるため、〇・一ヘクタールだけは駐車場と倉庫用地にした。

市場出荷中心だった経営を、少しずつ地域に開いていった。

自宅の庭先に販売スタンドを置く。
地元のスーパーに直接出荷する。
学校給食向けに野菜を届ける。

収穫体験など、畑に人を招く企画も考えた。

「野菜だけでなく、畑を提供して、われわれの技術を売ってはどうだろう」

発案したのは、仲間のひとり、加藤義松だった。
単なる区画貸しではなく、種や苗、道具を用意し、ノウハウを教え、利用者が確実に野菜を作れるようにする新たな体験農園だ。

練馬区役所に持ちかけ、四年をかけて準備を進めた。九六年に加藤が第一号を、翌年に白石が「大泉 風のがっこう」を開園した。



いま、白石の畑は、区内に住む退職者や親子連れなど多くの人々でにぎわう。
春には、がっこうの区画を四十アールから五十アールに広げる。

農業の魅力を都市の人たちに伝えるため、やりたいことはまだまだある。
「ただ、私にとって基本は、自分の手で畑を耕し、生産することだ」という。

農作業で軍手をすることも少なくなった。
白石の手は日に焼け、年をとるごとに、がっしりと厚みが出ている。

つめの周りは、土が染みつき、細かいひび割れがある。ごつごつしたこの手を、白石は誇らしく感じている。=敬称略

(朝日新聞 2000年1月19日掲載)
年齢等の記載は掲載同時のままです。
また、改行箇所等は改変してあります。

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