米粉パンケーキとインド

最近は米粉パンケーキを毎日のように焼いていて、今日はなんと、5枚も食べてしまった。米粉に、重曹、塩を少し入れて、豆乳で混ぜる。焼けたらレタスをのせて、塩とオリーブオイルをかけて食べる。お菓子ではなくて、昼ごはんあるいは晩ごはんとして。フライパンで焼いているけれど、パンケーキをひっくり返すのに使ってるのは、炒め物に使う木ベラ。少し太いので、薄い専用のものを買えば良いのにと思うのだけど、そのままになっている。今は、食べ終わったばかりで、お腹もいっぱいで少し眠気も感じている。

ここしばらくは仕事をあまり入れておらず、暇がたっぷりある。お金はないが、しかし、明日も明後日も自分で予定を決められる、と感じるのは素晴らしい、何にも変え難いことである。仕事の時の緊張感も悪くはないが。

肉はたまにしか食べない。というか、家では食べない。前までは結構厳格に菜食をしていたが(ベジタリアンだったことはない)、最近は外では肉も食べている。
今日は何年ぶりだろうか、キーマカレーを食べた。牛肉だったろうか。久しぶりだったこともあって、今、命を食べているのだ、と強烈に感じた。菜食であれ、植物の命を食べているのであるが、ともかく、この命たちを頂いて出来上がっている我が身、あだやおろそかにすることなかれ、である。

インドに興味をもったのは、20代半ば過ぎのことだったと思う。当時は実家にいて、ラマナ・マハルシや、OSHOの本を読んだりもしていた。もっと前、学生時代の終わり頃(6年在学して、そのまま卒業しなかった)頃に、ラヴィ・シャンカールのCDを聴いていた気がする。実家に帰った時このCDを母が見て、昔彼のコンサートに行ったことがある、というではないか。声楽家で、ほとんどクラシック音楽にしか興味無さそうな母にしては意外な、と思っていたが、シャンカールの来日時に、電車にコンサートの広告があって、その写真に誘われているような気がして、ふらふらと行ってしまったとのことである。
大学のとき、友人に誘われて、ヨガの体験に行った。ヨガといっても、ポーズをとるあれではなくて、サハジャ・ヨガと言っていたが、まぁ、瞑想の類いだったと思う。自分は何も感じなかったのだが、友人の方はえらいハマり様で、グルの写真をもらって、毎日その前で祈って(瞑想して?)いるというではないか。何か効果あるの?と尋ねると、ある、と力強く答えてくれた。しかしその時は自分はそれっきりであった。さて数年後、インドなど相変わらず興味も何もない私は、学校や、人間関係か、よくわからないが、とにかくすごいストレスを感じていて、苦しかったのだが、ある日電車からぼんやり外を見ていると、ヒマラヤに行きたい!と、自分の中で声がするではないか。これには自分でもビックリした。というのも、ヒマラヤも、その宗教的意義も、インドも、その頃は全然良く知らなかったし、興味も無かったのだから。なんでヒマラヤ?!と自分で可笑しくなってしまった。さてしかし、この後すぐに、自分の心の声に従ってヒマラヤに行く、ということもせず、ヒマラヤのことなど忘れてまた数年。いわゆる精神世界の本を読んだりもして、インチキな本も多かったがともかく、少しずつインドに近づいて行った。そういえばこのころ読んだ仏教の経典、詳しくは忘れてしまったけれど、本物の仏陀がどのようなものか、を表すところがあってその一つに、仏陀は、眼を伏して、俯き気味に歩いている、アリも踏み潰さぬように、というところがあった。これに感銘を受けた私は、さっそくアリも踏み潰さないように気を付けて歩くようになった。この修行(?)のおかげかはわからないが、この後お金をよく拾うようになった。さて、じわじわとインドに接近していくわけだが、しかし、インドにどっぷり、ということには結局ならず、いつも、距離を置いているけど、毎日話し声が聴こえてくる、といった関係のようである。



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