映画『オッペンハイマー』評
ようやく観ることができたわけです。
そのことこそが、この映画の
一番大きな意義であったかもしれません。
素晴らしい映画でした。
判断するのは私たちであるはず
映画が上映されることで騒ぎとなるか否か、
判断するのは映画を観る私たちであり、
映画を観せる側ではない、
という社会であって欲しいと思います。
配給会社は表現者でも指導者でも保護者でもなく、
少なくとも社会をコントロールする側にはいない。
さらにひどい推察かも知れませんが、
この映画の上映を躊躇した日本の配給会社群は、
この映画を観ずに思考停止状態になったのかもしれません。
あるいは映画の見方や芸術というもの、
映画言語がわからないのでしょう。
ごくわずかのそういう者たちの判断で
私たちの「体感できる権利」が 大幅に蝕まれ、
コントロールされようとしました。
このことは忘れてはなりません。
国の文化の営みとしては危険な状態に思います。
正常な資本主義国家ではないと感じます。
一連のジャニーズ問題と通底していると感じます。
一連の政治資金問題と通底しているように思います。
戦争に突入していった旧日本とも似ています。
集団や組織の中で異を唱えることの困難さ、
周囲の目を気にして足並みを揃える風潮。
日本のそういった空騒ぎを見透かしたか、
なんとも皮肉なことに、
この映画はそれらのことについて
警鐘を鳴らしているのであります。
しかしそれらのことは日本に限ったことでもなく、
自由の象徴のようなアメリカでもそうだったようです。
ドイツの全体主義を敵視した結果、
アメリカは真綿で締め上げるような
ゆるい全体主義国家のようになりました。
集団のおそろしさです。
マジョリティは「動き出したら止まらない」
それに巻き込まれたオッペンハイマーです。
巻き込まれて先頭に立つことになります。
「ジャンヌ・ダルク」のようでした。
そして「我々は世界を破壊した」とのセリフ。
クリストファー・ノーランは 人類に警鐘を鳴らしつつも、
どこかで達観し、諦観している感じです。
そして成り行きを静観したような映画でした。
日本人であることを痛感する
高潔な映画です。
この映画に原爆投下の映像は必要ありません。
映画としてはすごくまっとうな判断でした。
最終実験から戦後、
トルーマン大統領と 接見するまでの20分間ぐらいだったでしょうか。
作り物の原爆投下映像を観させられるよりも
観ている私の心象に激しく刻まれる嫌悪感が、
不思議な高揚感とともにこみあげました。
聞こえないはずの爆音があり、
見えないはずの悲鳴と惨劇を感じました。
私が日本人だからなのか、 そこはよくわかりません。
冷静ではいられなくなる時間帯がありました。
見事な表現だったと思います。
巧みな計算のもと、 緻密な映像の配置がされていたと思います。
得も知れぬ感動と興奮でした。 感じたことのない悲しみでした。
取り返しようのない悔しさでもありました。
涙が止まらず、これこそが芸術かと、 そう思いました。
アンサーよりも先ず、何を問われたのか
日本の誰かがノーラン監督に 「いつかアンサー映画を作る」と言いました。 簡単なことではないでしょう。
おそらく今の日本では作れないと思います。
この映画の上映を躊躇するような国で、
外圧がなければ何も変えられず、
自浄能力のカケラももたないこの国で。
「唯一の被爆国として」という、
形骸化した被害者意識的な認識ではなく、
「人間というものが集団行動の果てに
辿り着いた唯一の悲劇的結末の犠牲者」という、
大きな視座で見つめなおさなければ、
この巨大な映画のアンサーは導き出せない。
しかしいつの日か、 そんな映画が日本から生まれ、
私たちがその作品を選んで観ることができ、
あーだこーだと感想を言い合える日が来れば、と。
心の底から願うものであります。