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2021Su志乃【橋竜】

 しとしと、水気を吸ってしんなりと地面に重なる枯葉を踏んで歩く。落ちた小枝も若木の枝のようにやわらかく、靴底に圧されても曲がるばかり、折れようとはしない。
 息ができる水の中にいるような潤った空気は、すぐ近くに滝があるからだ。高く空の上から落ちるような滝は、その足もとに涼しいながらも年中雨が絶えないかのような、特殊な気候を作り出している。
 透き通るような緑の木々に、無造作につかんだ宝石をまき散らすように光を弾いて滴る葉末の雫。中天には日が輝くのに、ひっきりなしの涙雨が頭皮を首筋を伝って、立ち入るものことごとくを湿らせていく。
 涼しいが寒くはなく、湿気の強い場所にありがちな腐敗臭はあまり感じない代わりに、水辺から遠い場所でも清流のような透明が香る。
 かつてここに来た時となにも変わらない滝森の様相に満足を覚えた。彼の待機場所として、ここは間違いではなかったようだ。高すぎて滝壺を持たない滝の落ちる先へ向かい、そこからさらに流れの甘やかな川沿いに歩いて下れば、彼の姿が見えてきた。
 川をまたぐ、苔むした石の橋だ。地の灰白色がうっすらと残る苔緑に、随分と待たせてしまったな、と少し反省した。面白いものを見ると追いかけずにいられないせいで、目的のものを手に入れるまでに、かなり寄り道をしてしまったのだ。
 欄干のように体に沿った二本の角を、手のひらで叩く。待たせたね、と声をかければ、橋……否、友はその竜体をのっそりと起こした。半ばあたりの岩や土に埋まりかけていた頭をゆっくりと振り、長大な尾を波打たせて絡みついた木の根から引き抜く。
 朝の挨拶をしたら、機嫌の悪さを物語る地響きめいた唸り声で返された。待つ間はいつも眠っている奴だが、今回はさすがに眠るのにも飽きるほど待っていてくれたということだろう。薄く湿った土をかぶっていたまぶたを擦って土と苔を落とせば、ゆっくりと開いた眼が私の姿を捉える。いつかの海底都市から見上げた晴天のような瞳が瞬き、年中虹をかける滝を見上げた。
 相変わらず寝起きから元気に動ける奴のままらしい。
 石の鱗を撫で、口の端、頬へ額を押し付けた。また長旅だ。私を背に乗せて永く永くどこまでも飛んでくれる友に、感謝とこの先の道行きを願う。
 石の竜は首をもたげてのけぞるように空を仰いだ。放り出されていた尾から彼の背を駆け上り、角の間を目指すうちにも、ぬかるんだ土と湿った苔で靴底は滑りに滑る。滑り落ちかけたところで、飛び上がる準備のために体を波打たせて私を放り上げ、彼は私を定位置に受け止めた。
 本格的に飛び立つ前に、と慌てて素手で近くの苔を掻いて剥がせば、心地よさげに彼が身を震わせる。
 頭上にかかっていた木々の枝を盛大な音を立てて折り散らかしながら浮上する彼の背で、落ち着いた乾いた土地を探そう、と決めた。寄り道にはなるだろうが、鱗の隙間まで泥と苔に埋まった友の姿をそのままにしておくのは忍びない。彼の鱗は乾いた軽石の色とガラス質の滑らかさを持つはずなのだ。私のせいでこんな姿にしてしまったからには、責任をもってきれいにしてやるのが筋というものだろう。
 滝の中腹まで浮上すれば、その崖のさらに上にまた切り立つ山がある。ひとつ身をくねらせれば、彼はあっという間に滝を飛び越えて空へ舞い上がった。久しぶりに動けるからと瞬く間に機嫌を直した彼が一声吼えれば、背後には雷雨の雲がついてきた。
 自然発生の雲などついてこられるはずもない高空まで一足飛びに駆けあがり、滝上の川をまたぎ、人身未踏の山へと飛び込む。
 境界をまたぐ竜に乗り、異界たる山へ、ひいてはここと全く異なる世界へ。
 放っておけばどこででも根を生やしそうな友を連れたまま、根無し草は世界間を漂う。なにしろ、本当に根を生やすまで放っておいたら当の竜が怒るのだ。
 はるか昔に交わした口約束のまま、こうして気も遠くなるような長い時を共にしてくれる竜に身を預け、私は次の探し物に思いを馳せた。

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