2021Au志乃【剃刀負けの手当てまでしてもらった】

 人間らしい生活、というものは案外保つのが難しい。
 毎日朝起きては顔を洗い、ひげを剃り、髪を整え、三度の食事を用意して咀嚼し飲み込み、体を清めて決まった時間に就寝する。やることが多くてうんざりするが、驚いたことに世間の人間の大半はこれをこともなく、しかも毎日欠かさず行っているらしいのだ。
 吸い込む空気に多分に含まれた湯気でむせそうになりながら、浴槽の中で尻を滑らせて顎を湯に浸す。波立った湯が風呂蓋にぶつかり、タプンと音を立てた。人一人が入ってちょうどの浴槽にたっぷりの湯は、肩まで浸ると少し揺らしただけで風呂蓋を洗ってしまう。蛇腹タイプの蓋は三つ折りにされて半端に浴槽にかぶさっているが、潔く巻いて洗い場にでも立てておいたほうが良かったかもしれない。しかし、よくよく見ればカビはおろか砂のごとき細かい埃さえついている様子がないので、湯にこの風呂蓋が浸っていたところで、不潔だとは思わなかった。
 ひやりと冷たい浴槽のふちへ二の腕と肘を預け、脱力した状態で耳をすませば、風呂の外が賑やかなことに気付く。僕を風呂へ押し込んだ少女が、せわしなく動き回っているのだ。
 洗濯機が回っては逆転して中身の水流をひっかきまわす音、ご機嫌なア・カペラ、炊飯器が炊きあがりを訴える甲高い電子音。家電たちはすべて、彼女の指揮によって仕事を得て、冬眠から覚めた蛙のように騒いでいた。
 家中のありとあらゆるものが音を発し、置物をやめて本来の役割を取り戻す。物に心があったなら、この家の家電や道具類は揃って彼女を主人と認めているだろう。
 ……自分一人の面倒さえ見切れない僕の世話を、僕の半分程度も生きていない少女にさせているのは、どう考えたって問題しかない。机にかじりついて研究ばかりしている僕にだって、それくらいの常識はある。とうの昔に成人した人間が、ほんの少しだって自活能力を持ち合わせていないだなんて、情けないことこの上ない。
 とてもじゃないが大人であるなどと名乗れはしない。しかし、見かねた彼女がちょくちょくやって来ては面倒を見てくれる今に、それこそ風呂に浸かるような安心感を覚えているのも確かだった。僕などのために彼女の若い時間を消費させて得る安心感。改めて考えるとグロテスクで、たまらない気持ちになる。
 深々とため息をついて鼻先まで湯に沈め、冷えて強張っていた体が緩んで解れていくのを味わった。このみっともない、形ばかり大人になった体が、入浴剤かなにかのように溶けてなくなってしまえばいいのにと、益体もないことを考える。
 実際溶けたのは体ではなく意識で、眠ることさえ忘れていた脳みそは温められて思考を放棄した。うとうとと夢うつつの狭間を揺れていると、キッチンの方から食洗機の音に紛れて聞こえていた彼女の歌声が近づいてくる。
 ばしばし、と浴室扉のすりガラスが振動して、僕の意識を揺り起こした。
 風呂にどれだけ時間をかけているのか、ご飯が冷める、と彼女はご立腹のようだ。まだ覚め切らない夢の余韻でふわついた返事を繰り返していたら、ついに彼女は浴室扉のノブに手をかけた。
 今すぐ上がってこないと私が入って風呂から引きずり出す、と半ば以上脅しを含んだ宣告に、ようやっと目を覚ます。どうにか思いとどまってくれるよう懇願しながら体を起こしたら、勢い余って浴槽の中で滑り、どっぷり頭まで湯に沈んだ。それでようやく、浸かっていた湯が随分とぬるくなっていたことに気付く。
 用意された湯を使って、上がればできたてのご飯があって、多分彼女は部屋の片づけもしてくれているし、すぐそばで回っている洗濯機には枕カバーやシーツも入っている。なにもしなくても綺麗な部屋で温かい食事をとって、清潔な寝床で眠れるだなんて、僕は王様にでもなったのだろうか。
 ひげを剃らずに上がってきたらデザート抜き、とおまけのように飛んできた声に笑って、僕は伸び切ったひげに剃刀を当てた。

ゆっくりボイスによる朗読はこちら

https://note.com/shiou_kiyomi/n/na26639807ec4

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