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自分って何よ?となった@ Uber Existence

最近友人から教えてもらったサービスがある。それはUber Existenceというものだ。

みんなおなじみ、家でオーダーをし、食事を配達してもらうuber eats。一方で、uber existenceは、単に食事を持ってきてもらうだけではなく、人の身体を借りて外を散策できるサービスということらしい。キャッチフレーズは「家にいながら、外に出よう。」

流石にこれはフェイク...?存在代行...?いくら2020年といえども、身体まで貸し出すサービス...?と、という驚く気持ちがある一方で、友人の話によると結構面白いという。そしてコロナの影響で外出できないせいもあるのか、ユーザーもどんどん増えているらしい。

驚きを抑えつつホームページを覗いてみると、登録するとの画面が。まだ恐る恐るではあったけれど、友人からの話をが背中を押す形でアクターとして登録してみた(ユーザー側も試してみたいのだが、学生にはちとハードルが高い...!金額面!)。とりあえずやってみるに越したことはない、という精神である。

登録すると、早速帽子やマイクなど必要なセットが届いた。

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帽子にはすでにカメラが装着されていて、とてもイカしている。

装着するとこんな感じ。(自撮りかつ夜だったので画質がとても粗い...)赤く光るカメラに映される景色は、ユーザーのPC画面に映るようだ。マスクの下にはマイクが入っていて、ユーザーがPCに向かって発する声がそこから出ていく仕組みになっている。つまり、ユーザーが自分(Ryohei)の一次視点をみながらRyoheiの身体を動かし、誰かと会話をしたかったらユーザーが直接コミュニケーションをとることができる、ということだ。

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自分は現在オランダにいて、それが日本のユーザーにとっては珍しかったのかすぐに依頼が届いた。自分の身体を使って誰かが自分の景色を見ている、というのはとても奇妙な感覚だった。

できる限りユーザーの指示に従おうと試みる。自分は抜け殻になるんだ、脳だけ別人のものを移植されたように(攻殻機動隊)、、なんてイメージはするものの、自我がどうしても邪魔をする。

一度、アイスを買いに店に入った。ただ、店に入った後に電波が悪くなったせいかユーザーの指示が何も聞こえないという事件が起きた。それはとてもとても居心地が悪いもので、指示通りに従いたいという気持ち、身体の中身を空にしたいという気持ちと、自分で考えねばという気持ち、また自分の思考が入れ混じることの罪悪感などを感じていた。

自分の身体を自分の思い通りに動かそうとすることの罪悪感なんて、普段は感じない。自分の身体は自分のものだと思っているからだ。しかし、その葛藤は意外にも身近なもののように思えた。それは例えば、課題の締め切りが迫っているのに、自分が長く寝てしまうことに対する罪悪感や、友達が「何食べたい?」と聞いてくれたときの「なんでもおっけい!そっちが選んでよ!」というときのような(自分がなんか決めたほうがいい?それとも相手は何か食べたいものがあるのかな?そもそも自分はある?いや相手の食べたいものが食べたい?それは無礼?的な無限ループ)、他者と関わる中で発される自分の言葉と自分の意思との間に感じる葛藤に似ていた。

それはもしかして、自分のものだと思い込んでいる自分の身体が、実はとても社会的なものなのではと再認識させる経験だった。自分の一つ一つの行動に意思はあったのか、それは社会がそうさせてきたのではないか。あるいはそこで感じる葛藤そのものが、自分を自由にさせる大切な感覚なのではないかなんてことも思ったりした。

一方で、普段自分がしないような行動を、すんなりとすることができた経験もまた面白かった。初回のオーダーでは、ユーザーから自分を通して現地の人と喋ってみたいという依頼があったため、自分の友人に予め頼んで、自分を通じてユーザーが人と十分に話せるようにセッティングをしておいた。

英語が流暢なユーザーであったことと、今回会ってくれた友人が自分のことをよく知っていたこともあって、会話はスムーズに進んでいった。依頼が終わった後、その友人に話を聞いたところ、「Ryoのこと知ってたから、最初は違和感あったけど、そこまで会話のハードルは感じなかったよ」と言っていた。人間見た目じゃないよとはいうものの、見た目はある程度、やっぱり作用するらしい。

その友人と一緒に道を歩いていると、ユーザーから「彼女の帽子をとりあげちゃってください」と笑いが混じったオーダーが。驚いたのは自分がそれに対しては葛藤を感じず、すんなりと帽子を彼女の頭からキザっぽく奪い取れたことである。誓って言うけれど、自分は普段女性の頭から帽子をささっと奪い取るようなことはしない(と言うかできない)。

自分の身体が無になっていたから帽子をすんなりとれた、とも言えるのかもしれない。それはさっき上で書いた、自分が自由である状態からは遠いものであるかもしれない。一方で、自分が自分に対して無意識に規定してきたゾーンのようなものから、思いがけず飛び出たような感覚も覚えた。それはまた、ちょっと清々しいような、爽快な驚きだった。

Uber Existenceは、今までの人生から想定できないようなことを自分にもたらした。自分が信じていた人間という枠をある意味で溶かすことによって、自分が自分のものであると信じてしまう意思の存在や、感情の所在、感情の意味、それが自分にもたらすもの、また自分が無意識に自分の行動を規定していた枠のようなものなど、どんどん可視化していく。

それはきっと頭を動かす想像、だけではたどり着かないものなのかもしれない。身体が指示によって動かされ、それに応じて自分の頭も動いていった。とにかく面白い。今は課題なりなんなり忙しいけれど、時間があるときにまた挑戦してみたい。

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