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レスポンスと自分

ちびちびとでも自分と向き合う必要性を感じる。
なぜならそれが自分が一番取り組みたいこととやっぱり繋がっているはずだし、結果それが研究にもつながるはずなわけで、また日頃散りばめられているたくさんの選択にも繋がっているはずだからである。

と、いうわけでちびちびとランダムに書いていこうと思う。

自分は誰かに頼ってもらえている時が一番やりがいを見出す時であると思う。それはとてもいいことでもあり、苦しいことでもある。

きっと誰かに頼ってもらえているときは自分の行動を肯定してあげることができるのだと思う。前の記事でも少し触れたけど、レスポンスがもらえるというのは大きい。それがポジティブなことであればより嬉しいし、ネガティブであってもないよりはマシだ。そのレスポンスが大きければ大きいとき、つまり頼ってもらえているときは、自分は結構動ける。矢面に立てたりもする(あんまり普段はソーシャルな人間ではないと思う)。

逆にそのレスポンスがなくなってしまうとき、つまり一人での活動が増えるとき、一気にやる気がなくなってしまう。例えば今はルームメイトが帰省していて部屋に一人なのだけど、ひとりでいる時の大学院生活ほどやる気が出ないときはないのではないかと思ったりもする。なかなか興味が湧きづらいテーマの課題をやっているときなんかは、手も足も出ない。

この頼ってもらう時にやる気が出るっていうのは結構自分の中ではいろいろなことと繋がりを持っている。例えば、何かを決断する必要がある時。決断はやっぱり最終的には自分という人間がする他にないとは思うのだけど、やっぱりそこで誰かに背中を押してもらいたくなってしまうというか、自分の決断に対して意味を与えてくれる存在を欲する自分がいる。正解なんてこの世にないのだから、それぞれの選択肢に対するそれっぽい正解は、それっぽい以上のものにはなり得ないと思うのだけど、それを欲するのだ。

それは普通のことだとは思うのだけど、それで片付けられない自分がいる。別に普通だ、ときけば自分の中の感覚が消化されいつも決断のときに迷いや葛藤がなくなるわけでもない。その感覚はあくまで自分が感じたリアルなもので、自分のものだからである。

そうやって他の人に背中を押してもらってする決断は時に自分を良い方向に持って行ってくれる時もあるし、悪い時には言い訳要素へと変化する。

例えば人間関係なんかでも。これは些細なようで、とても大事なことだと思う。誰かのためにしてあげたいと思って始める行動も、その行動の意味が「その人のために」に還元されていくと、その人からのリアクションが薄かったときとか喜ばれなかったときなんかにその人のせいにしてしまったりする。

だから、自分のする行動が他の人にあとを押されてすることもある、ともちろん意識した上で、「自分の」行動と周りのいろいろなレスポンスが密接に繋がっていることを意識した上で、それはグラデーションなんだって受け入れた上で、

なんだっけ。

それはグラデーション。混ざり合っている。自分の行動とたくさんのレスポンスは密接に、ただ在るものとして繋がりあっている。その中で、自分はそのレスポンスを多く求めてしまう、それと同時に自分の感情とか活動のモチベーションとかとそれが密接に結びついている。それを理解した上で、自分の行動、何をすべきかというのをもう少し自立しながら考えれるようになりたい。

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