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わからーん

自分はなんでアフリカ研究をしているのだろう。

今日の授業で、激しく議論が巻き起こった。

「植民地主義にだけ目を向けるのではなく、気候変動など全体的な問題、アフリカ社会が内包する問題にも目を向けるべきだ」

「植民地主義の反省をもっと行うべきだ」

もちろん、どちらの視点も欠かすことはできない。ましてこれらの問題を二分することなんてできるわけがない。

人の生きる社会は多様なんて言葉じゃチープすぎる。もっともっと複雑に絡み合って、ときにはグラデーションの上にあって、常に変化し続けるものだ。人は過去の歴史をどこかしらに背負いながら、目の前の現実と向き合いながら生き続けている。歴史は常に今この瞬間に混ざり合っていて、切り離すことはできない。

と、いうことは分かっている。問題は、自分がアフリカ研究を通して、その複雑な絡み合いを真剣に受け取って、考えて、何をしていくのか、何をしていきたいのかということだ。

ヨーロッパという土地柄もあるのかもしれない、ここの人たちは植民地主義という言葉に自分より何倍も敏感だと思う。植民地主義に関して考えることがいかに大切か、それを説く彼らの言葉は自分が同じことをいうより何倍も気迫がこもっているように感じる。

それだけに、植民地主義とアフリカ社会、という二分は問題をシンプルにしすぎている、現実に生きている彼らは植民地主義の影響を社会に、個人に内包しながらそれを現実として生きている。歴史的な、構造的な問題と彼らの今生きる現実、主観、感情を同時に考えなくてはいけない。こう主張したい自分の言葉は、一体どこへ繋がっているのだろう。

I'm here for Africa. I'm studying here for Africa!

ウガンダ人のコースメイトはいう。アフリカになんかしらルーツを持つコースメート、オランダに永住したいからオランダでマスターを取りたいといって在籍するコースメイト。理由は多種多様である。

自分はなんだろう。

モザンビークで見た、溢れんばかりの感情を真剣に受け取りたいと思っている。「アフリカ」という文脈を背負いながらも、日々前のめりに生きていく、彼らの様子を真剣に丁寧に描きたいと思ってここにいる。

それはどこかいまいち自分を受け止め切れていない状態にある自分を溶かしていくような、解体していくような感覚を持つ。圧倒的な現実を、これでもかというくらい自分のものにして、感情を晒しながら生活していた彼らにどこか自分が憧れて、こうやってアフリカ研究をしているのかもしれない。そうすることでどこか自分が救われていくような感じがする。

モザンビークで見た人たちの感情をどうにか真剣に取り扱いたい。この自分の思いというか研究テーマはどこへと向かっていくのだろう。自分を救い、誰かのためにもなるのだろうか。

まだまだ全くわからない。わからない。わからない。



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