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自分がないこと−−−解離・共依存・ASDについて

R5年1月〜4月に読んだ本は写真の3冊だった。発達障害と解離の関係に興味を持つようになり、それについて書いてありそうな本を読んだりした。自己感が乏しい現象はトラウマによる解離症状と考えるのかASDの中核的な特性と考えるのか。また、発達障害や共依存についての本も色々読んでいるが、カサンドラ症候群になっている側の人にも発達障害傾向がありそうなこと(あくまで私見)に言及している本にまだ出会えていない。関係性の問題として考えるのか個人の特性として考えるのか。

解離とは、自分がないとは、ASD者の自己感とはどんななのか。私は幼少期、悲しいはずの時に悲しくなくて、嫌なことをなかったことにするのが自動的にできた。深刻にしなかったから元気だった。キャラ変して他人の意向にばかり合わせて動いてたのは自己肯定感の低さゆえではなかった気がする。もともと自分がないからだと思う。自分がない=自分という概念がない=自他の区別・境界がない=思いっ切り受け身の人形になるか、思いっ切り頑固になるかだ。

自己を肯定しよう!という課題は、自己感のない私達には意味不明の難題でしかない。心理学的とか哲学的生き方としてとか生育環境によるパーソナリティとしてというよりも、生物学的・遺伝学的・脳機能的・生来的に私達は"自分がない"。

自分がない=自分は代わりのきく存在でしかない=生きている意味はない=死にたい となるASD者もいる。私が死にたくならなかったのは目の前にやることがあったからかもしれない。他人から求められたことに疑問もなく痛みも感じずに応じ続けること(共依存)は、死から私を遠ざけた。特定の誰かの意に合わせるという方針が決まってしまえば、そちらに振り切れて調節困難になり、それは作業になり、迷わないで一択を選び続けるという意味ではラクな生活の始まりだ。ASD者にとっては生活をシステム化することは心地よい。いつしか限界を越えて疲弊はするとしても。

ASD者にとっては自分を大事にしてくれる親や恋人の存在も、生きる意味にならないことがある。愛情という目に見えない曖昧な物は行動の指針にならない。それよりも確かな物、強制力を持った環境や支配者の存在こそが生きる意味を鮮やかに与えてくれてしまう。

以上より共依存や解離は、ASD特性そのものと限りなく同義であり、ASD者にとっての対処行動であり、葛藤を抱える力をあまり持ち合わせていないASD者が生き延びるために行き着いた状態像。この世からなかなか共依存やDVがなくならない意味がぞっとするほど分かる気がした。相手から離れたほうがいいよ、という第三者の助言が届かない、その意味が。

それでも生きてくことが回復であり、今日一日、という自助グループに流れる価値観につながる気がした。今日一日、相手との間に境界線を引けたら、自分の意見や感情を見失わなかったら奇跡。依存症者はスリップすることがあるという前提での、今日一日、どう過ごすかという今日の選択の重み。共依存的な行動(恋愛、親子関係、支援者患者関係、その他色々)に手を伸ばさないでいる日数をどこまで更新できるだろう、私達は。今この時、共依存やDVに苦しむ人は、相手から離れるという決心を何日間揺らがないで持ち続けられるだろう。なかなか離れない人、離れたのにまた相手の所へ戻った人を叱責したり見放したりしない支援者でありたい。正論みたいな助言は脇に置いて。

私は自分の、共依存になりやすい性質を自覚してから、それが治ったとか消えたと思ったことは一度もない。それを抱えつつどう生きるかなんだと思う。治ったと言い切る人はまだ本当には自己理解できてない段階、まだ普通を追い求める段階にいるのかなと思う。そういう人達のことも仲間だと思っているし排除したくないなと思う。

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