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うまくいかない現実があるのを知るということ

昔の私は、自分の努力次第でなんでもできるようになると思っていた。
道徳の時間に「可能性は無限大」だと教えられたし、好きな歌にある「夢は叶う」という希望に溢れた歌詞を信じて疑わなかった。

しかし、希望に溢れた未来を疑い始めたのは小学4年生か5年生の頃、習い事でそろばんを始めたのがきっかけだ。

そろばん教室には弟妹と一緒に同じタイミングで入塾した。
塾は月・水・金の週3回だったが、弟妹は日曜日に「強化合宿」なるものに呼ばれていたし、そろばんの大会でよく入賞するようになった。
一方、私は合宿や大会に呼ばれたことなんてなかった。

当時の私が気にしていた様子だったからか、母からは「やっぱりそろばんっていうのは、頭がやわらかいうちに始めたほうが飲み込みが早いからねえ。あんたももっと小さい頃から始めたら、たくさん入賞できてたのにねえ」と慰められたことがある。

その頃は「モノゴトは開始時期の差で成長に差が出るんだなあ」くらいにしか思わなかった。(実際は才能の部分も大きいだろうと今となっては思う。)

中学生になった私は、陸上競技を始めた。
「足が遅い短所を克服したい」と思い入部したところ、まわりはみんな「足が速い特技を活かしたい」と入部した子ばかりだった。

3年間まじめに続けたら個人としては成長したので、目的達成ではあるものの、結局部内で一番足が遅いのは最初から最後まで変わらなかった。
そこで「不得意なことに取り組むというのは、効率的ではないんだなあ」と学んだ。(とはいえそれがカッコ悪いとは思わないので、未だに不得意なことに突っ込んでいくことも多い。)

高校に入った私はマンドリン部に入部した。
クラシックギターで、好きな曲を弾けるようになりたいと思ったのがきっかけだ。

陸上部の頃のようにしんどいトレーニングはなかったし、新しい楽譜が溜まっていくのは面白かった。
ただ、コードごとの指の押さえは覚えたし、練習もしっかりと参加していたはずなのに、合奏してもうまく弾けたと思えたことがなかった。
経験を通して「好きだからといって、上手になれるわけではないんだなあ」と知った。

…と、ここには書ききれないほどに努力だけではうまくいかない現実を知った。

今思えば、子供のうちはまわりの人からかわいがってもらえるので、少々自信過剰なところがあるのかもしれない。
親やまわりの大人に守られているためにその尊厳が守られている。

しかし、だんだんとそうはいかなくなる。
絶対的な味方である親元を離れ社会と繋がって生きていく中で、努力だけではうまくいかない状況を積み重ねて大人になった。

大人になるというのは、うまくいかない現実があるのを知ることなのではないかと思う。

世の中は、うまくいくこととそうでないことが五分五分である。
「幸福量保存の法則」なんていう、当時の私が知ったら耳を塞ぎたくなるであろう法則の存在も知っている。

とはいえ、「どうせうまくいかないから努力しませんでした」というのは許されない。
努力だけで成果がないのは意味がないが、成果が見込めないからといって努力しないのは怠慢でしかない。
うまくいくのを信じて一生懸命取り組むしかないのだ。

現実を知った今、もし15年前の私へ偉そうに物申せるのなら以下のように言うだろう。

まずはやってみること。

もしうまくいかないことがあっても、腐ったりせずに「まあそういうこともあるよね」と立ち直る心があればなんとかなる。(はず)

これからの人生、うまくいかないことも増えてくるけれどそんなに悪いもんじゃないよ、と。

ーーーあとがきーーー


#大人になったものだ のテーマで書いていたのに、既に期日を過ぎてしまっていた。
まあそういうこともあるよね。(と思いながら投稿)

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