見出し画像

"今"が確かに存在していたことの証明

これは今日、地元で体験した話。
でも少し、過去のことから話そうと思う。

2020年8月、私は祖父から譲り受けたフィルムカメラを持って地元を散策していた。

ふと足を止めたのは商店街。
もう、お店を営んでいるのは数軒だから、とても商店街とは呼べなくなっているのだけど。

なんとなく、「商店街らしさが残っているうちに」という気持ちでシャッターを切った。

(2020年8月撮影)



そして今日。
8月と同じフィルムカメラを携えて、お出かけした。


商店街が近づくにつれて、違和感。

(ん、アーケードがない…?)

赤い矢印の方向に商店街が通っており、私の記憶ではオレンジの波線部分にアーケードが見えたはずなのだ。

(いやいや、私が覚えてないだけで、この十字路のところはもともとアーケードがなかったのかも。)
(見通しが悪いからこの十字路だけアーケードを撤去したのかな?)


そんなふうに言い聞かせて辿り着いた商店街、

やっぱりアーケードはなかった。

8月とほぼ同じ場所から撮影した写真。

(2021年1月13日撮影)

衝撃、喪失感。

裏腹に、憎いくらいの綺麗な青空。

この景色を見た瞬間から、
私の記憶の中にいた商店街は、"商店街だった場所"になってしまった気がした。

地元のことをこんな風に言いたくはないが、私の地元はいわゆる、限界地区と呼ばれるところ。
この商店街もいつかは過去になってしまうんだろうな、と数年前からなんとなく感じてはいたけれど、
まさかこんなに早く来るなんて。

小学校を卒業して約12年、県内・県外の大きな街を見て、住んで、改めて地元を歩いた時、
この小さな港町の変化(衰退)というものをまざまざと見せつけられた気がした。

強い喪失感を感じた日だったけど、
同時に「写真をやっていてよかった」と思えた日でもあった。

写真に魅入られていなかったら、このアーケードの景色は、私の記憶の中にしかなかったから。

"今"が確かに存在していたことを、証明できた気がした。
記憶を形に、ちゃんと残しておいてよかった。
8月の私、ありがとう。

「生きた証を残す」ことは別に生きていく中での義務ではないけど、歴史を好きな人間である以上、「今」が確かに存在していたことをどうにかして未来に伝えたいと思っている。
(Twitterより)

こんなことを日々考えながら生きているけど、
「見える景色を写真に残すこと」もきっと
"今"が存在していたことを証明する手段として、立派なひとつの答えだ。

今日は自然と、幼い頃の思い出に浸りながら散歩することになった。
けれど、その話はまた今度。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?