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ふりかけのない白米のような日々を味わう。

20代の終わりまで、生きるだけで大変だった。

心身の不調や、人間関係のトラブル、仕事場でのミスや、家族間でのいざこざ。嫌なことだけでなく嬉しいこともたくさんあって、ありとあらゆる種類のイベントが起きていた。常に何かに追われているような感覚があって、とにかく忙しかった。

それと比べると、ここのところ驚くほど穏やかな生活を送っている。体調は落ち着き、仕事は続けられていて、色々と「危ないかも?」とヒヤッとするようなタイミングはあっても決定的な事故みたいなことは起きていない。すごい。こんな日が来るとは想像していなかった。

以前、「こんな毎日何も特別なことが起きなくていいんだろうか。ポッカリと穴があいてしまった感じで物足りない。」とカウンセラーの先生に相談をしたことがある。

「あなたはこれまで毎日トウガラシを10本食べ続けるみたいな生活を送ってきたの。強い刺激に慣れていたから、今が味気なく感じるだけ。だからと言って、新しいことを始めようとしなくていいの。当たり前の毎日を大切にして。」と、返ってきた。

分からなくもない、と思った。強い感情や、大きな変化やイベントは刺激的だ。疲れるけれど、中毒性がある。興奮するしストレス発散にもなるのだ。たくさん傷ついて、うんざりして、穏やかな日々を心から望んだはずなのに、少し時間が経つとまた刺激が欲しくなる。

「濃い味にばかり慣れていると、ふりかけのない白米は味がしないでしょう。それでも、味付けを薄くしたり、白米を食べ続けたりしていくうちに、白米だけでも噛むと甘いんだと感じられるようになるわ。」

そんな風に言われたんだった。

ここのところ「最近、どう?」とか「今、何している?」と聞かれても、うまく答えられない。まあ、それはそれでよかったのかもしれない。きっと、ふりかけのない白米に慣れていく日々だったのだ。

朝起きて、仕事をして、自分で作ったご飯を食べて、本を読んだり、文章を書いたりしながら過ごしてきた。休みの日には掃除や洗濯を念入りにして、読書会に出たり、公園を散歩したりして、料理をする。その繰り返しだった。

何を成し遂げたとか、目に見える成果を出すような期間ではなかった。強いて言えば20代の頃は対処できなかったであろう日々のトラブルを早めに察知して回避できるようになったくらいだろうか。

他には何だろう。最近は、春になって晴れた日に散歩するとポカポカと背中が暖かくなって嬉しい。周囲に誰もいないときにマスクを外すと、顔で風が感じられる。自分は意外と季節の草花が好きなことを知った。

人と交わすなんてことのない会話。もらった言葉。自分から勇気を出して声をかけてみたりした。大切にしている思い出もある。

どれも言葉にしようとすると、かすんでしまう。一瞬だけ香っても、すぐに風にかき消されてしまう。とらえようとすると、見えなくなる。誰かに伝えるにはあまりにも頼りない。

分かりやすい存在の前ではすぐに影に隠れてしまうような何かを大切にしていた。白米は噛んでいるうちに甘くなる。そういう日々でした。

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