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くすりゆびと憂鬱(5869文字)

※ずっと前に「指」というテーマで書いたものです。

1. 紗絵


男というものは口紅の色や、ネイルの柄や、髪型の変化にはてんで気が付かないくせに、女がどこか美しくなったという変化にはひどく敏感なのである。

だから紗絵の夫の淳也も、彼女が以前より美しくなったことには勿論気がついた。

「紗絵、最近綺麗になったね」
「そう? 嬉しい」
「いやほんとに......見せびらかしたくなる。連れて歩きたいもん」

嬉しいと言ったものの、紗絵の心は全くと言っていいほど弾まない。以前はあんなに魅力的に思えた夫が面白味のない、くたびれた男に見える。「連れて歩きたい」という台詞もなんとも前時代的だ。

(女は男のアクセサリーじゃないし)

淳也がそんなつもりで言ったのではないことは分かる。分かるがすべてを否定的に捉えてしまう。26歳で結婚してから早4年。子供はいない。今年で30歳となる節目の年に、紗絵は疲れ切っていた。

(この優しい人を愛せたら、どれだけ楽だろう)

淳也に愛の言葉を囁くことはいつからか、努力を要するものとなっていた。紗絵が「愛している」と言うとき、頭には別の男との逢瀬が浮かんでいる。その罪悪感が彼女に優しい気持ち――気の毒なこの人を労わってあげなければ――を抱かせ、やっと夫を満足させる言葉を発することが出来るのだ。

「ふふ……照れる。淳也も格好いいよ」

囁く紗絵の目には、いつかの満月が映っている。


2. カズ


バーでひとりで酒を飲む女というものは、何かしらの刺激を求めている。
それはマスターとのウィットに富んだ会話であったり、ひとり酒を嗜む自分への陶酔であったり、一期一会の出会いであったりと、さまざまだ。

そんな女と仲良くなるのは、平均的なルックスと会話能力があればたやすいことだ。彼女たちが求めているのは自分をどこか違う世界に連れ出してくれるかもしれないという淡い期待なのだから、それを匂わせてやればいい。

+++

なじみのバーの扉を開けると、見慣れない女がマスターと談笑していた。

「マスター、綺麗な女性捕まえて何やってるの」
「カズさん、いらっしゃい。人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。お仕事帰りですか?」
「そう。一杯飲みたい気分になってね。イエーガーマイスターをロックで」
「おや、お疲れですか」

気安いマスターと落ち着いた雰囲気が好きで月に一度ほどこの店に通っている。スーツをハンガーにかけ、女からひと席空けた椅子に座る。

女は黒髪のショートヘアに紺色のセットアップワンピースという一見地味な出で立ちであり、特別美人とも言えない。しかし、横顔から覗く赤い口紅の色やノースリーブから伸びる細い腕には十分に男を惹きつける魅力がある。本人もそれを分っているのだろう、「綺麗な女性」と言われて少し照れた様子で微笑む姿は計算と分かっていても愛らしい。

警戒されないよう穏やかな声を意識して声を掛ける。

「こんばんは。お邪魔してすみません」
「いえ……こちらにはよく来られるんですか?」
「月に一回くらいは来ちゃいますね。マスターと話すのも楽しいし、なによりお酒が美味しい」

マスターは「恐縮です」と言いながら、俺の目の前にグラスを置く。
赤茶色の液体に浮かぶ氷が艶々と輝いている。横に添えられたオレンジを軽く絞る。

「それ、どんなお酒なんですか?」
女が興味深そうに俺のグラスを覗く。
「マスターの前でお酒を語らせるのは鬼畜ですよ」と言うと、女から「ふふ」と笑いがこぼれた。お、笑うとさらに可愛いな。

「養命酒みたいな酒で体に優しいんですよ。もうオッサンなんで、ね」
「おいくつなんですか?」
「今年で34」
「それでおじさんって言っちゃったら私もおばさんです。もう」

拗ねたように笑う女の左手の薬指には、さりげないダイヤがあしらわれた指輪が光っている。
指輪を付けてバーに訪れる女の心理はどういうものだろう。
相手のいない淋しい女ではないことをアピールしている? 
それとも男除け? いや、そんな雰囲気でもない。

……夫がいると理解した上で遊んでくれる相手を探している、とか。
俺にとって都合のいい解釈だということは分かっているが、そうであってほしいと思う。女の話すテンポや言葉選びはこの場の雰囲気にぴったりとはまっており、この心地よさにもっと浸っていたいという気分になっていた。

少しの会話にも知性というものは滲み出る。馬鹿な女は嫌いだ。馬鹿な女と一緒に過ごしていると、不思議とみじめな気分にさせられるものだ。

「俺、カズっていいます。お姉さんのお名前、聞いてもいいですか」
「……紗絵です」

少し前から、マスターは会話に全く口を挟まなくなった。同じようなやり取りが過去、彼の目の前で何百回も繰り広げられてきたのだろう。子供の遊びを見守る親のような微笑みを絶やさぬまま、無言でグラスを拭いている。

「手、綺麗ですね」

マスターの気遣いに感謝しながら、紗絵の指にそっと手を伸ばした。

3. 紗絵


ゆったりと道路を走る車のフロントガラスから、覗く満月。

紗絵は隣でハンドルを握る30代前半の男を横目で眺めていた。カズと名乗っているが本名なのかは分からない。きめ細かい肌と、顎から耳にかけてのシャープなライン。夫からは失われてしまったそれらは月の光に照らされて輝く。

ホテルを出た後、ドライブを楽しんでいるうちに時刻は24時を回っていた。プライベートに踏み込むべきではないと思うものの、事後特有の気安さからか、するりと質問が滑り出た。

「明日はお仕事?」
「そう。朝早いんだ」
「帰り遅くなっちゃったね。朝フレックス勤務とか使えないの?」
「厳しいなあ、ちょっと特殊な職業だから」
「え、なんだろう」
「当ててみてよ」

突如始まったクイズの答えを求めて、1時間ほど前まで紗絵の身体を包んでいた感覚を思い浮かべる。分厚い胸板。割れた腹筋。のしかかる心地よい重み。

「筋肉すごかったし、消防士とか?」
「惜しい」
「わかった! 警察官」
「あたり」

隣の男がにやりと笑う。
警察官と聞くとその笑顔が急に爽やかに思えてくるから不思議なものだ。

「すごい、当たった! 警察官かあ。かっこいいね」
「初めて言った」
「いつもは言わないの?」
「絶対言わない」
「......なんで私には言ったの?」
「紗絵ちゃんなら、いいかなって」

「初めて」をもらって嬉しいのは男だけではない。本当であれ嘘であれ、自分が特別なのだという言葉は高揚をもたらす。無言で喜びを噛みしめている紗絵の右手に男の左手が伸びる。恋人でも何でもないのに、指を絡ませて恋人つなぎをする。

(片手で運転できるのって格好良い。淳也は絶対にハンドルから手を離したりしない。安全第一の人だもの)

そんなところが魅力的に思えた時期もあった。夫の淳也と隣のカズの言動をいちいち比べてしまう自分が嫌になる。

繋がれた手に左手を添える。男の薬指と紗絵の薬指で其々輝く金属が触れ合い、小さく音を立てた。

(私は一体なにをしているのだろう)

ふと冷静になってしまう自分を振り払うように、男の手を強く握り返した。

4. 淳也


会社帰りに和樹と立ち寄った居酒屋で「最近妻が美しくなった」いう話をしたところ、「浮気でもされてんじゃねーの?」と思いがけないことを言われた。まあ勿論、和樹お得意の冗談だ。

和樹とは社会人になってから入ったフットサルサークルで知り合った。真面目な自分とお調子者の和樹という全く性格の違う二人だが、なぜか馬が合い、時々飲みに行く仲になった。

「いいか淳也、よく聞け。女ってもんは胸のトキメキがそのまま外見に表れるんだよ。俺の嫁は最近ソン・ガンっていう韓ドラの俳優にハマったらしくてな。所謂『推し』ってやつ。それから肌の艶が全然違うんだよ。惚れ直したわ」
「……そこで嫉妬もせず惚れ直せるお前が好きだよ」
「よせやい、照れるだろ」

実際、和樹のことはかなり好きだ。男友達に改めて伝えるのは流石に恥ずかしいが、和樹のさばけた性格と憎めないキャラクターには救われてきた。一緒にいるだけで周りを幸せにできる奴だと思う。

「『推し』か……まあ、俺の妻は浮気なんてするタイプじゃないし、好きな俳優でもできたのかな」
「さりげなく惚気るなよ。そういえば淳也の嫁さん見せてもらったことねーぞ! しゃっしん! しゃっしん!」
「ったく、もう酔ってんのか?」

大学生ノリの和樹に呆れながらもスマホを操作し、紗絵の写真を探す。去年の沖縄旅行の際に撮ったツーショットを見せてやる。

「ほれ」
「おお! どれどれ......え?」

消え入りそうな呟きと同時に和樹の動きが止まった。

「ん、どした?」
「......いや、嫁さん美人で驚いた! なんて名前?」
「紗絵だけど」
「そうか......紗絵さんね。......いや、こんな嫁さん羨ましいわ!」

そう言う和樹はどこか上の空だ。紗絵がよっぽどタイプだったのか? 
なんてな。

「おい、大丈夫か?」
「ああ、平気平気。よし飲もうぜ! 乾杯!」

紗絵に遅くなるって連絡しなくちゃな――そう思いつつ、ジョッキに半分ほど残っているビールをグビリと飲み干した。

5. 紗絵



バーでの邂逅以来、紗絵は2週間に一度のペースでカズと会っている。夫の淳也は技術営業をしており、遠方の取引先の会社や工場に赴くことが多い。淳也が不在のタイミングに二人は逢瀬を重ねていた。

最初は場の勢いだった。二回目は熱心なカズの誘いを断り切れず。三回目にはカズからの連絡を待ち望んでいる自分がいた。忘れようとしても、ふとキーボードを叩く手を止めたときや家事の合間に、彼の顔が浮かんでくる。

(そろそろお誘いが来る時期かな? こっちから連絡してみようか。いや、面倒な女と思われる)

時刻は23時。淳也は先程まで飲み会だったらしく、今帰宅途中とのことだ。

風呂に入り、寝支度までを終えた紗絵はひとりベッドに座り、LINEのトーク画面を開いては閉じるという行動を繰り返している。

(馬鹿みたい、私。片思い中の女の子じゃあるまいし)

そのとき、ちょうど開いていたカズとのトーク画面に新着メッセージが入った。慌てて画面を閉じるも、既に付けてしまった既読は取り消せない。声にならないため息をつきながら、トーク画面を開いた。

『紗絵ちゃんごめん、もう会えない』

紗絵はしばらく瞬きをすることもせず、その一文を見つめていた。もう会えないという事実を突きつけられ、思いがけないほど喪失感を抱いている自分に対して、ただ驚いていた。

『どうして?』
『LINEじゃ言いにくいから、ちょっと電話してもいい?』

淳也が帰宅するまであと15分程はかかるはずだ。
『少しなら大丈夫』

既読が付いて直ぐにかかってきた電話を重い気持ちで受ける。

「もしもし、紗絵ちゃん? いきなりごめんね」
「ううん、いいの。それよりもう会えないってなんで? 私、何かしたかな?」
「いや、紗絵ちゃんは何一つ悪くないんだけど……あのさ、紗絵ちゃんの旦那さんの名前って淳也?」
「……え? どうして知ってるの?」
「本当に偶然で、俺もまだ信じられないんだけど、俺と淳也友達でさ。さっきまで飲んでたんだよね」

今日の飲み会の相手がカズだった。
決して交わることのないと思っていたふたりが繋がっていた。

「たまたま奥さんの話になって、淳也の奥さんが紗絵ちゃんってこと……知っちゃって」
「……私たちのことは言ってない、よね?」
「言うわけない。淳也も気づいてないから安心して。でもごめん、さすがにもう紗絵ちゃんとは会えない。俺、淳也は裏切れないわ」

「淳也は裏切れない」という言葉を聞いた瞬間、紗絵は自分が心の奥底で見下していた夫に完敗したのだと悟った。

「俺から誘っといてこんなこと言える立場じゃないのは分かってるけどさ、淳也は良い奴だよ。今日だって、話してて紗絵ちゃんのこと大好きなのが伝わってきた。勝手なこと言ってるのは分かってる。けど、大事にしてやってほしい」

(あなたに言われなくても、淳也が愛してくれてることは私が一番分かってる)

だから紗絵は苦しい。淳也の重みに押しつぶされそうで苦しい。同じ愛情を返せない自分が苦しい。

「……そうだね。大事にしなきゃね」

絞りだすように声を出した。兎に角、一刻も早く電話を切りたかった。こんな時でさえ、紗絵は相手が望む言葉を発してしまう。勝手なことを言うなと罵ってやりたい気持ちを抑えている。

数秒間の沈黙の後、和樹が切り出した。

「今までありがとう。紗絵ちゃんと過ごすのは本当に楽しかった」
「……私も。ありがとう」

電話を切った。
途轍もない脱力感が紗絵を襲った。

ふと、左手に光る結婚指輪が目に入る。
何故だか分からないが、涙が溢れて止まらない。

「……こんなもの!!!」

指輪を外して壁に投げつけたい。そんな激情に駆られ、指輪を引っ張る。指が浮腫んで上手く外れない。薬指が鬱血して赤黒くなっていく。痛い。痛い。全てが憎らしく、悲しい。

「もう!」

洗面台に走った。石鹸をこすりつけ、もう一度指輪を思い切り引っ張る。スポッという小気味良い音と共に指輪が外れ、その勢いのまま排水溝に吸い込まれていった。

慌てて排水溝を覗き込んだが、見えたのはどこまでも続いていそうな闇だけだった。深淵もまた、非難がましい目で紗絵を覗き返している。

今ならまだ業者に連絡すれば回収できるはずだ。その考えとは裏腹に、紗絵の手は蛇口を回す。最大出力で放出された水は涙と混じり合いながら、排水溝をドクドクと流れていく。

(下水を抜けたら川だろうか。海だろうか。あの指輪がどこか遠い島に流れ着いてくれたらいい。なんの意味も持たない、只々美しいものとして、楽園に住む少女の宝物になってくれたらいい)

そうすれば、自分の犯してきた罪が少しだけ軽くなるような気がした。

楽園。それはきっと、愛や背徳や罪悪感を知らずに笑えていたあの時代のことだと、紗絵は思う。自分はもう楽園に戻ることはできない。ならば、あの指輪だけでも――

カチャン、と玄関の鍵が開けられる音がした。淳也が帰宅したようだ。

紗絵はこの後、指輪を流してしまったことを涙ながらに謝る。淳也は指輪なんてまた買えばいいと、紗絵の涙を拭い、頭を撫でるだろう。

「ありがとう。ごめんね。本当に淳也は優しいね」

囁く紗絵の目に映るのは、楽園の海辺で太陽に照らされ煌めく指輪。


〜あとがき〜
不穏なお話ですね。笑
オーストラリアに来てはや5ヶ月、仕事や友人にも恵まれゆるゆると生きております。
今は夫がオーストラリアに遊びに来てくれてます。超甘党の彼はこちらのスイーツに夢中。








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