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才能、そしてライフワーク

「頭のよさ」を決める最大の変数は努力した時間である、という言説を最近たまたま書籍や記事で何度か目にした。いわゆる「才能」チックなものも、そうだと思う。世界的に有名な演奏家やオリンピックで活躍するアスリートと私を隔てる最も決定的な要素は、一つのことに費やした時間であるはずだ。(もちろん、身体の作りなど変数は他にいくつもあるけれど)

「才能」は先天的なものではなく努力によっていかようにもなる可能性を秘めている、というと聞こえがいいけれど、それに気づくタイミング、そして気づいてから努力することを始めるタイミングが遅くなれば遅くなるほど、才能にあふれる人たちとの差はぐんぐん開いていく。人生において自分が消費可能な時間は、刻一刻と減っていく。後発組は、寝食を忘れてざんばら髪を振り乱し熱狂するぐらいの勢いを見せないかぎり、今もたゆまぬ努力を続ける先発組に追いつくことができない。

自分に秀でた一芸がないことの最大の原因は、病気なのか疑わしいレベルの極度の飽きっぽさだろうと思っている。新卒採用の面接でよくあるような「これまでに一番頑張ってきたことは?」といった類の質問は最も苦手とするところだ。「この1か月で始めた新しいことは?」という質問であれば嬉々としていくらでも語れるけれど、これまでに聞かれたことはない。

ただ唯一、文章を書くことだけは昔から変わらず好きで、自分で言うのもおこがましいけれど、まあまあ得意な方だと嘯いてみてもいいのかな、と思っている。これも、やはり小さい頃からの時間の使い方が影響している気がする。

母から聞くところによると、5歳の頃から一人で本ばかり読んでいたらしい。小学校にあがると、図書室や近所にあった「だいさん文庫」(漢字がわからないが、第三?)という週一だけ本の貸し出しをしているお宅に通って貪るように小説を読んだ。通学路を歩いている時ですら、本を読んでいた。今でも覚えているが、10冊読んだら1枚提出できる読書カードのようなものがクラスにあって、1か月で10枚提出して先生に呆れられた。(褒めてはもらえなかった)

中学生の時は、図書館にある「日本人作家」の書棚の一番端から、「あ」行の作家が書いた小説を読み漁った。愛川晶、赤川次郎、我孫子武丸、綾辻行人、有栖川有栖…と「あ」行には素晴らしいミステリ作家が大勢いるのだ。人がばたばたと死ぬ小説ばかりを毎日毎日読んでいたことが、「自分や大事な人が明日死んでしまうかもしれない! 今死んだかもしれない!」という強迫観念めいた死生観に繋がっている気がする。

小学校5年生の時に自分のパソコンをもらってからは、自分でも文章を書くようになった。ネット上で知り合った友人にタグの使い方などを教えてもらいながら、詩と小説を公開するホームページを作った。今でいうブログのような、自分と友人の恋愛模様や授業中にあった面白いことなんかを綴った日記も、「テキスト」と称して頻繁に書いていた。

思春期のあの頃は、感受性が爆発していて、歩いていても何をしていても次から次へと頭の中に言葉があふれて止まらなかった。日中は手のひらサイズのノートに小さなシャーペンでせっせとメモをし、夜になると部屋にこもって深夜までひたすらキーボードを叩いた。幼い頃から蓄え続けた言葉たちが、出してくれ!出してくれ!と叫んでいるかのようだった。塾に通ったり、ということもなかったので、時間は無尽蔵にあった。

きっと、一芸を持っている人々は、私がそうやって言葉に埋もれていた時代にコツコツと何かを積み上げる努力をしてきた人たちなのだと思う。振り返っても私には文章しかない。ただ、そこに注ぐ情熱を今に至るまで維持できなかった。大学生になって、私が恋愛にうつつを抜かしたり酒に溺れたりしているうちに、書いて書いて書き続けた人たちが今、「才能」を手にしている。

「さて、これからどう生きていこう」と考えることは、「今日から何に時間を費やしていこう」と考えることと近しい。色々「やってみる」は決して無価値ではないが、一つのことに継続して時間を費やすことができないかぎり、もうどこにもいけない気がする。「やってみる」ばかりにかまけていると、唯一まともにできていたはずの文章を書くことすらままならなくなる。不思議なもので、しばらく読み書きの世界から離れていると、何かを書こうとしても指が止まってしまうのだ。無理やりひねり出した言い回しの、薄気味悪さといったら!

何か一つのことに熱中し努力してきた人々が大成していくのを、指をくわえてみているだけの日々はつらい。「やってみる」ことの世界の一つひとつにプロがいて、やってみればやってみるほど1万周ぐらい遅れて走っている自分に気づき、虚しい気持ちになることもある。職探しは「好きなこと」と「できること」の掛け合わせだというが、趣味、ライフワークの類は、「好きなこと」と「継続できること」の掛け合わせなのだろう。私のライフワークは「文章を書くこと」だと、いつか胸を張って言えるようになりたい。そのためには、もっと丁寧に時間と向き合わないと。

あとは、食に関する「何か」をライフワークにしたい、といつも思うのだけれど、「何か」があまりにも漠然としすぎていて暗中模索。料理も好きだけれど、台風のような荒々しさで熱中したかと思うと、半年間まったく自炊をしなかったりと、「継続できること」に昇格するまでには大きなハードルがある。

ライフワークを欲張って何個も持とうとするのがよくないのかもしれない。時間を分割すればするほど、成長曲線はなだらかになってしまう。でも、どうしても、たった一つの何かと心中できないのです。そして毎日新しい何かに挑戦してみたいのです。そんなアンビバレントな気持ちを抱えてうろうろと思い悩む28歳の秋。

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