逆張りアイデンティティ

人と違う何かがあることでしか自分を認められない。
そういう人は多いかもしれない。かくいう私もその一人だ。

これから先の主語は全て「私」だと考えておいてほしい。私の主張が他人に当てはまるなんて1ミリも思っていないのだから。逆張り大好き人間らしく、主語は一人称で十分だ。偏りの多い文章だと笑って読んでいただきたい。

長期のインターンからも学業からも解放された私に「今一番したいことは何?」と聞くと、大概次のような答えが返ってくる。
「ごろごろしたい」「遊びに行きたい」「服買いたい」「美味しいもの食べたい」
ちょっと深くまで聞いてみよう。「それってすなわち何がしたいってこと?」
そうしたら、次のようにまとめられるはずだ。
「一度現実を忘れたい」と。

迫り来る日常に対するプレッシャーは尋常でない。大人への階段に終わりがあればいいのにと思ったことは一度や二度ではない。そのくらい、今という時間を幸せと感じられる時間が極めて少ない。というか、「今」にまともに向き合っている時間がほとんどない。大概は過去の黒歴史に悶絶しているか、未来への不安に押しつぶされている。無視される今よ、可哀想に。

でも、この前までインターンなんかやっちゃって、研究なんかやっちゃって、人生謳歌してるじゃん、と反論されるかもしれない。そうだ。私の人生は恵まれに恵まれている。仕事をしている間だけは苦しさを少しばかり忘れられた。「今」に熱中できた。でも、その充実感は恐らく、仕事は開発、趣味も開発、休日アキバで部品調達、みたいな私の周りの一部の人々には遠く及ばないだろう。数学が好きです、機械学習って楽しい、研究してみたい、と口では言いながら、内心ではそんな興味ない。食欲睡眠欲性欲のみならず、その他の一過性の欲をのうちかなりを優先させてしまうほどには、興味なんてそんなない。正直、努力は苦痛だ。それ自身に楽しみを見出せずに周りと比較するから、心を病むくらい苦痛を感じる。努力を努力と思わない周囲が羨ましくて殺したい。正直そんな辛いならやめればいいのに、なぜか私はやめる方向に舵を切ることができない。理由は1行で終わる。

私は人と違う何かがあることでしか自分を認められない。

私はミーハーでありながら逆張りオタクでもある。自分にしかできないものを、それでいて大衆に受け入れられるものを探して生きてきた。これは、学業成績において周囲からわりあい目立つ存在として過ごした幼少期が大きく関係しているだろう。有象無象に紛れた途端、私のプライドは引き裂かれ、存在価値を見失う。承認欲求とかいうちゃちいものではない。「他者にはないものを持っている自分」として、この自身の存在を規定しているのだ。自分の病さえも、自分のアイデンティティとして受け入れ、大衆に受け入れられる形で利用しようとする傾向がある。おいやめろ。治せ。

だから私の理想とする未来は、私だけの世界を持って、それを数多の顔の見えない他者に、輝く宝石として見せつけることだ。研究も、開発も、数学とかぷよぐやみんぐだって、自分が使っていてある程度は楽しいけれど、それは「自分の夢を実現するツール」に過ぎない。仲良くなりたいとは思うけれど、それ自体が特段好きなわけではない。だから毎日辛いし、例え何かがうまく行っても自分を褒めることができない。その先の何十年に及ぶゴールを思いやって、「まだまだだな」と思うだけだ。

恐らく多くの人が、「もし人と違う自分になれなくても、そのありのままの自分を受け入れられるようになりなさい」とやんわり諭し、「ジココウテイカン」なるものを植え付けようとするだろう。断固拒否だ。どれだけ遠回りでもいい。プライドが折れるまで私は死んでも諦めない。でも、声高に叫んでも結果は多分ついてこない。

今の自分が学ぶべきは、内面に飼っている異常に高く脆いプライドと、暴走するエネルギーを制御する方法なのだろう。あと体力つけなきゃね。…というわけで、早く医者にかかりましょう、逆張りしおんさん。

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