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人間か道具か


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世の中には2種類の人間がいる

「人を”人間”と捉えるタイプ」

「人を”道具”と捉えるタイプ」
の2種類。


”人”とは、自分から見た”他者”のこと。

以下、人間と捉えているタイプを「Nタイプ」、道具と捉えているタイプを「Dタイプ」とする。



Nタイプは、人は各々が自分の人生を歩んでいると思えるため、人それぞれに特有の考えがあること、悩みがあること、感情があること、事情があること、生活があること、関わる人達がいること、などを想像することができる。

Nタイプにとって”人”とは、それぞれがそれぞれの価値観を持つ”人間”であり、自分の解釈だけで理解することが困難な存在。



Dタイプは、人に道具的な役割や価値を求めている。
道具とは「物を作ったり仕事をはかどらせたりするのに使う器具の総称」とある。

道具には種類ごとに一定の品質があると捉えることから、その品質の良し悪しでカテゴライズすることが多い。

自分の中で規格された品質の範囲内での特徴や多機能は評価する一方、自身の許容範囲を超えた特徴や個体差がある場合は悪い評価になる。

道具であるため、その種類ごとに共通の機能や使い方および直し方があると考えるし、思い通りの役割を果たさない道具は不良品とみなす。

道具としての価値で評価するため、結果のみを見て評価することが多い。

Dタイプにとって”人”とは、自分の使い方で役立てる”道具”であり、自分の理解と解釈で取り扱う存在。



Dタイプは酷いと思うだろうか。

実は、頭ではNタイプのような理解をしているつもりでも、実際の関係性の中では無自覚にDタイプになっていることは誰にでもあり得るし、場合によってはDタイプの方が物事が上手くいくこともあるので、絶対に悪いというわけではない。

冒頭で人間の種類と書いたものの、これは関係性のタイプであり、「あなたは絶対にどちらかのタイプ」というわけではなく、人との関わり方、つまりシチュエーションによって変わることがある。

ではそれぞれのシチュエーションによる例を見ていこう。



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SNS

・自分の意見を支持しない、フォローしない、そんなやつらは何もわかっていない。
・これだけ良い物を提供したのに、「いいね」しないどころか批判するとは何事だ。
・あの人は有名人なんだから、こういう発言をしないとダメだ。
・バカは説教して正してやろう。
・(誰かが困る動画について)これは面白いから晒してやろう。

このあたりがSNSでよく見かける悪い方向のDタイプと言えるだろうか。

そのSNSに存在するアカウントの先には、リアルな暮らしをしている人がいるということを少しも想像せず、自分自身の欲を満たすための道具として、そのアプリの一部の機能であるかのように人のアカウントに一定の品質を求める一方、自分自身は自由に振る舞う。

自身の求める品質を満たさない場合や、否定的な反応を返された場合は強い拒否反応を示し、その相手を容赦なく攻撃し、その結果相手が悲しんだところで気にもとめないどころか、正しいことをしたと考える。

Dタイプはこれらのような考えに至ることがある。

とはいえ、「宣伝のためにフォロワーを増やす」などを実現するためには、Dタイプの捉え方も必要になるはず。

そしてNタイプは、SNSにおける人の言動で傷つくことはあってもイラつくことはほぼなく、尊重と配慮のある言葉を選びながら人に影響を与えようと思っていない発信をきっと行っている。


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仕事

社内の関係では。

・あの部下は何度教えてもやらないし全く成長しない。
・うちの上司は何もしないで給料もらってる給料ドロボー。
・自分はこれだけやったのに全然評価されないし、会社は何もしてくれない。
・会社はこうやれば上手くいくのに幹部は全然やろうとしない。

これらのような考えを抱くのはDタイプだろう。

自分と違う立場の人が、自分と同じ思考や条件で仕事をしていると思い、やるべきことをやっていないと考え、不信感を抱く。何もやっていないわけないのに。

自分が出来たことなら、みんなも同じやり方である程度それが出来ると考えるし、その時に抱く感情もまたある程度自分と同じだと考える。

逆に立場が同じで同等の仕事をしているはずの同期が自分より評価が高い場合にも不満を抱く。人を道具として捉えているとその道具としての業務内容や成果にばかり目が行くが、実はそれ以外のコミュニケーションなどで差があるのかもしれないのだが、それに気づくことは難しい。

Nタイプなら不満に思う前に「なぜあの人(人たち)は、そうなのか?何かそうなる理由があるのではないだろうか?あの人に見えているものはなんだ?」と考えるところ。


お店の「店員」と「客」の関係では。

・あの客はお金をいっぱい持ってそうだから、ガンガン商品を勧めとこう。
・店員なんだからこれぐらいやれよ。

店員は自分達の都合を押し付けずに、もっとお客さんの話を聞ければ、長いお付き合いをしてくれるお客さんになってもらえたり、その人ならではの悩みからサービス向上のヒントなどを得られたりするのに、お客さんを人間と捉えないことでその機会を逃す。

客側のDタイプはよく見る。まさに一定の品質を店員に求める。「店員だって人間だからミスもするし、感情もあるし事情も違う」ということを一切考えない。
そこで「自分が店員だったらこうされたら嬉しいな」と考えるのも実はDタイプなのかもしれない。その人ならではのことがあると想像していないから。


仕事関連で言えば、通勤時もDタイプとして周囲を捉えていることもあるだろう。

ルールを守っていない人に苛立ったり、逆に我先に人混みをかき分けて目的地に向かったり。その人はルールを知らなかったか気づかなかっただけ、自分の行動で他の人の都合を悪くしていることがある、そんなことを想像もせずに。

子供と一緒のお母さんの都合、くたびれたサラリーマンの事情、そんなことを自然と考えて行動に移すのはNタイプ。


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家庭 / 友人

・(子供に対して)遊んでばかりいないで勉強しなさい。
・(子供やパートナーに対して)なんでこんなことも出来ないの?
・子供は言い聞かせれば思い通りに動くと思う。
・成績で子供の優劣を評価する。
・子供の成績が悪いから塾に行かせよう。
・子供やパートナーは褒めとけば良いんでしょ。
・お母さん、明日これあるからこうしてって言ったよね?
・おじいちゃんに会いに行くと喜ぶしお小遣いもらえるから行こ。
・兄が出来るのに自分が出来ないのは親がこうしてくれなかったからだ。

家族あるあるが多いと思うが、これらもDタイプの考えと言える。

基本的には自分都合で考え、相手も自分とおなじ基準を持っていると考える。家族だからこその甘えと慣れなどから、尚更そう思うことがあってもおかしくない。

だからと言って、これで愛情が薄いとはならない。ちゃんと家族のことを思いやって考えているし、例えば普段はDタイプの親でも、子供が苦しんでいるときには、Nタイプとなって子供に寄り添っているときもある。二つのタイプはそのぐらい人の中に当たり前にあるもの。だからNタイプ、Dタイプと愛情の話は別。そのシチュエーションにおいて人をどう捉えてコミュニケーションを取っているか、というだけの話。

ただ筆者の考えとしては、常にNタイプでいられる方が、家庭内のストレスは少ないだろうと思う。


友人や恋人の関係では。

・あいつがいると盛り上がるから呼ぼうぜ。
・みんなやってるからあなたもやろうよ。
・自分がしたい話ばかりする。
・自分が知ってることは相手も知ってると思う。
・「何食べたい?」「なんでもいい」。
・本人が気にしていることをバカにしてイジる。
・恋人の趣味に振り回される。(と思ってる側も)
・束縛。

相手のことを考えない言動はDタイプか。

他人すぎる関係が故にそうなることはあるのかもしれない。親友と言える間柄なら違うのかもしれない。


それと友人とは真逆の関係ではあるが、「いじめ」を行う者たちはDタイプ。

その相手がどう苦しんでいるかも、その相手を愛する家族がいることも、そんなことを少しも想像できず、自分都合のくせにそれを相手のせいだと問題をすり替えて、思考停止で行為を繰り返す。

現代ではネット上、特にSNSでもよく見られる問題。


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学校 / 習い事

ここで言う先生と生徒は、コーチと選手も含めてる。

保護者も含めた生徒側のDタイプにはどんな例があるか。

・先生なんだからこのぐらいやってよ。
・先生のミスは許せない。
・あの先生はこれを教えないからダメだ。
・とある生徒ばかり優遇されているように見える。
・所属する生徒の成績の良い塾を選ぼう。
・あの習い事はあの家族が良いって言ってたから行こう。

先生という存在に、自身の持つ基準を満たすように要求する。プログラムすればその通りの反応がでるロボットのようなレスポンスを期待している。

先生と他の生徒だからこそ発生する関係性や都合があるのに、自分にも同じようにすることを求める。

他の生徒とは今まで歩んできた人生が違うのに、見えてる範囲で同じことをすればその生徒と同じになれると思う。見えてない部分で大きな違いがあるかもしれないのに。

Dタイプだとこういう考えになる。

生徒が子供を前提にしたものだが、大人になってからのセミナーなどでも、同じような捉え方はあると思う。


先生側はどうか。

・成績が良かったり良い進路に進んだ生徒こそが頑張っていると考える。
・人間性という自分基準の価値観でも生徒に優劣をつける。
・やる気が感じられない生徒をダメな生徒だと考える。
・生徒側が課題だと全く感じられていないことを勝手に課題認定する。
・受け持っている生徒の成績が良いかどうか、で先生同士を評価する。
・良い成績のところと同じ指導をすれば、同じ結果が得られると思っている。
・自身の成功体験通りにやればどんな生徒も成功すると思っている。
・受け持った生徒の成績が良い時に自分が育てたと思う。
・クレームがあれば考慮するが保護者の負担は真剣に考えたことはない。

所属する団体の仕組みや環境によっては、考えが違ってもDタイプの言動をしなければならない状況もあるはず。「優秀な生徒をどんどん出荷して良いところに納品して評価をもらわなきゃ!」という状況の人もいるだろう。

しつこいようだが、Dタイプだから必ずしも悪いというわけではない。

ただ指導現場においてはあまり好ましくないと筆者は思っている。

受け持っている生徒の成績が良くてそれを先生が自分の手柄と思ってしまうと、きっとそれが成功体験として残り、次はもっと良い成績を生徒に求めるようになるだろう。

成績が良かった数人にはその指導が良い方向に作用しただけ、つまりはその数人の生徒ならではの事情があったからこその成績だったかもしれないのに、そこを無視して考えると、その指導で育たない生徒が悪いという考えにもなってしまうかもしれない。

人を道具として捉えるDタイプは指導現場において危険だと考えている。


サッカーの指導現場ではこんな声をよく聞く。

「あのクラブは大会で結果を出してるし、強豪に選手を出してもいるから、良いクラブだ。」
「あそこは弱いからダメだ。」
「これさえやらせとけば選手は強くなる。」
「こういう考えを持てない選手はダメだ。」

こういう話を多くするコーチは確実にDタイプとして選手を見ているし、発言自体が敬意を欠いているので、筆者は好きではない。

「私は試合の結果だけじゃなくて内容も見てるし、選手一人一人のプレーもちゃんと見てるぞ!」と言う人も、それは選手のサッカーのパフォーマンスだけしか見ていないのだからDタイプ。

そういうことじゃない。それは結局選手を道具としてしか見ていない視点。

そこで「私は人間性の指導にも力をいれているぞ」とか言うのもDタイプ。

それも自身が規格した品質に選手を近づけようとしているだけ。


Nタイプはきっと、人を評価をしない。良し悪しを決めない。自分が相手を理解しているとは思わない。自分の思い通りに相手が変わるとも思っていない。

だから指導においてのNタイプは、生徒一人一人との対話が中心になり、全員に同じことを要求したり同じ評価基準で良し悪しを決めたり比較したりするということはなく、それぞれの生徒が力を発揮できる環境の調整に多くの力を注ぐのではないだろうか。


Nタイプのつもりでも無自覚にDタイプになっている指導者はたくさんいるはず。

そう思えるのは、筆者はDタイプの気質が強くあるため、「あの人はDタイプの捉え方をしてる」と他の指導者を見てわかるからだ。

筆者はNタイプの指導者になれるよう日々気をつけているが、なかなかそう簡単には変われない様子。

そんな自分を受け止めることもNタイプになるには必要なことかもしれない。

そして、この先生のくだりが長いのは筆者がコーチだから。


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最後に

ここまで読んでいただいたことで、「自分自身がどんな時にどっちのタイプの考え方をしていたか」を考えるヒントになっただろうか。

もしそうなっていれば嬉しい。


ちなみに「人をタイプ分けしてることこそがDタイプだろ」ってなる人は読解力が低いか全部読んでいないか、もしくは記事の書き方が下手か。

途中にも書いたように、人を分けているのではなく、捉え方を分けているだけ。

冒頭の言葉通り人間を2種類に分けようと思ったが、Nタイプの指導者になりたいと思っている筆者にはできなかった。


この捉え方の話や、「道具」という表現などは、『他者と働く』という本の影響を大きく受けている。

本稿の表現で言うところの相手を”人間”と捉える考え方、その考えがあるからこその人間関係の問題解決方法、などを知れる本なので、興味があれば是非手にとってほしい。



余談。

本稿では、”人間”の頭文字で「N」、”道具”の頭文字で「D」を使ったが、「N」は車のギアで言うところのニュートラルで「D」はドライブ。

どの方向にも固まっていなく、外の影響を受け止めるニュートラルギアは、まさにNタイプかもしれない。

そして、走る方向が決まっていて、自分の進行方向にどんどん走っていくドライブギアも、Dタイプと言えるかもしれない。

偶然ながらこのアルファベットで良かったと感じた(こじつけすぎか)。



終わり

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