ドリブル偏重に思うこと
まずはこの素晴らしい視点と文章の記事をご紹介。
「選手目線」からという視点は斬新。
そしてやり方の否定とかではなく、「自分にとってはこうだった」を強調した文章が素敵。
これに対してアンサー的な記事を書けたらカッコいいんだけど、私の能力だとそんなことは出来ないので、ちょっとこの記事に付け足したい私の思いのみを書きます。
付け足したいのは本記事のタイトルの通り、ドリブル塾に対してどうこうではなく、ドリブル偏重について思うことです。
ご紹介した記事の中では、ドリブル(本記事では突破、ドライブ、キープの区別なく)を中心に指導されることによるプレー面に対する効果が主に書かれています。
プレー面の効果という部分では他の方もいろいろと意見があるとは思いますが、私としてはそのプレー面よりも「ドリブル偏重による価値観の偏りを危惧している」という部分を言いたいです。
「ドリブル偏重による価値観の偏り」とはどういうことか。
ドリブルに集中的に取り組む環境では、多くの場合「ドリブルに多くの価値を感じている」ということは無いでしょうか。
私の周りではそれを感じることが多いです。
ドリブルのレベルが高い選手ほど評価され、それが苦手な選手は自信を失っている。
ドリブルのチャレンジをしたかどうかが注目され、ドリブルをやらない選手は逃げのプレーと評価される。
そんな現場を見ることが多かったです。
これは価値観が偏っていると思っています。
私はこの価値観が好きではありません。
なぜなら、私が大好きなサッカーというスポーツは、様々な才能を組み合わせて戦えるもっと多くの可能性をもったスポーツだと思っているからです。
そのスポーツが好きなんです。
サッカーは「ドリブルで抜いた人数」「ボールタッチの華麗さ」「デュエル(1対1)の勝率」で勝負するスポーツではないです。
「得点数」で勝負します。
その得点に至るまでに、いろんな才能を生かすことが出来ます。
そしてドリブルが得意な選手も含めて、その生かし方を考えることにも、面白さを感じることができます。
私が考えるサッカーの良さは、赤ちゃんでもゴールが決められて、ご年配の方でもメッシのドリブルのコースを変えることが出来る、そんなところにもあると思っています。
ドリブル偏重の環境では、ドリブルだけが評価されやすいため、他の才能を持っていたとしても、それが評価される機会はなかなかありません。
その環境ではドリブルが得意な選手はきっとすごく楽しいと思います。
でもそうじゃない選手はドリブルが上手くなるまでずっと楽しくない思いをすると思います。
もしかしたら体が出来てからドリブルが上手くなるかもしれない、才能的にもっと他のことが上手くなるかもしれない、そんな選手でも「今ドリブルをすること」を求められてしまいます。
そして試合の勝ち方を考える時に、チームメイトの個性を生かすより、ドリブルで抜ける方法ばかりを考えてしまいます。
試合でドリブルが上手く行かない選手がいても、その選手が他の方法でもっと試合に貢献できる可能性を探るより、ドリブルのレベルを上げる方法を探ってしまいます。
そのような価値観にすることは、私にとってとても悲しいことです。
先程も言いましたが私が大好きなサッカーはもっと多くの可能性があると思っています。
「ドリブルが出来ないからダメ、」ではなく「ドリブルが出来ないなら何で活躍しようか」、そんなことでみんなで一緒にワクワク出来るスポーツだと思っています。
仲間と一緒にチームとしてより良くなる、そのチーム対チームで駆け引きをする、そういう楽しさが好きです。
もしドリブル偏重の指導が、偏った価値観を生むこと無く、私が捉えているサッカーというスポーツの価値観の中で、ただ純粋にドリブルの技術を向上させるものであるならば、私は良いものだと思います。
けど現状私が感じている範囲では、偏った価値観を生んでいると、思ってしまっています。
私の周りでは多くの保護者が「ドリブルをしろ!」「自分で行け!」と声を荒げます。
その保護者の声の数が、私にそう感じさせています。
サッカーというスポーツがそう捉えられていると感じてしまいます。
正しいデータもなく決めつける、そんな私の価値観も偏っていますね。
プレー面的にどうこうではなく、そのサッカーというスポーツの価値が、自分が広めたいものとはズレているから好きじゃない。
以上、これが言いたいことでした。
終わり
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