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掌編/共食い金魚


共食い金魚

 ぬるく、ゆるやかに対流する閉じた世界。水のなかで食いちぎられた尾びれを揺らしながらプラスチック越しに見える景色。小さな魚たちは、空気の充満したこの重苦しい世界に憧れたりするのだろうか。

 頭上に浮かぶ餌、エアポンプから排出される酸素。プラスチックでできた水草は光を受けても光合成しない。薄暗い部屋の隅、小さな水槽のなかで数枚の人工の草陰に隠れる。けれどあの大きな赤い生き物はそれを押しのけ、ぬるく濁った水とともにすべてを飲み込んでしまう。

 丸飲みされて、溶けて、排出される。

 ◇

 寝苦しさに目が覚めた。首筋に張り付いた髪を無造作にかきあげたその手で鎖骨から胸元までを拭う。じっとりと濡れた肌、空気中の水分はゆるく締め付けるように脳を圧迫してくる。首を振るが、偏頭痛は変わらずそこにあった。

 嫌な夢を見た気がする。

 はっきりとは思い出せないけれど、体の芯でまだぞわぞわとうごめいている圧迫感と不安感、焦燥感の名残に、最近繰り返し見るいつもの夢なのだろうと思った。金魚に食われる金魚の夢。寝室の隅では水槽が低く唸り続けている。隣では夫が寝ている。

 夏祭りの夜、金魚すくいなどしなかった。なのにうちには金魚がいる。当日の夜まで出かける約束もしていなかったし、浴衣も準備もしておらず、部屋着の白いTシャツにジーンズ、ビーチサンダルという出で立ちで、今隣に寝ている夫も似たような格好だった。夕飯のカレーライスを半分ほど食べたときに聞こえたパンパンという乾いた花火の音に誘われ、「行ってみるか」と半分だるそうに口にしたのは夫。結婚十一年目。子どもができないまま、互いの趣味はそれぞれに持ち、約束して出かけることなんて年に何度もなく、二人での外出は常に行き当たりばったりだ。

 かき氷を買ってフラフラ歩き、公園の端でベンチに座って、手持ち花火に興じる数人の子どもたちをながめ、はしゃぐ彼らを諌める大人たちを横目にうかがい、かき氷のカップが空になった頃には子どもたちもその親らしき大人もいなくなっていた。屋台のまわりも人はまばらになり、そろそろ売り切って片付けてしまおうという雰囲気だった。

「帰ろっか」と立ち上がると、「ああ」と返事をした夫のその声が間抜けに裏返った。

「なに?」

 夫はひょいと指に何かをひっかけて私の前に持ってくる。赤い紐でキュッと縛られた小さなビニール袋の中で、四匹の小さな赤い金魚と一匹の黒い出目金が窮屈そうに泳いでいた。

「さっきの子どもの忘れもんかな?」

 夏祭りの戦利品を置き去りにしたのは誰なのか、この場に放置すれば明日まで誰の目にもとまらないまま太陽の熱に茹でられてしまいそうだ。私たちはそのビニール袋をもって金魚すくいの屋台を探した。簡単に見つかったその屋台はまだ営業中で、中学生くらいの男の子が二人、掬った金魚の数を競っているようだった。

「忘れ物みたいですけど」と店主に差し出すと、その人は「ええ?」と眉をしかめて夫の手元で泳ぐ五匹の金魚を一瞥し、「持って帰ってよ」と、それで彼の中では落着してしまったようだった。


 翌日ホームセンターで一番小さくて一番安い水槽を買い、夫と私の二人きりの生活に五匹が加わったのだった。毎朝毎晩、プラスチックの蓋を持ち上げてパラパラと餌をやる。人工水草を買い足し、水槽を洗い、日々の生活が大きく変わったわけではないけれど、金魚の数を数えるのが日課になった。

 夏が終わり、秋分の日が過ぎて、木枯らしが吹きはじめ、コートをクローゼットの奥から取り出したその日、仕事から帰宅すると一匹の赤い金魚がプカリと浮いていた。夏祭りの夜には似たり寄ったりの大きさだった金魚は今ではそれぞれ大きさが異なり、死んだのは一番小さい赤い金魚だった。

 年が明ける前にもう一匹死んで、翌年の春を迎えたのは赤い金魚二匹と出目金だった。金魚の数を数えることはなくなっていた。夫は水槽を洗い、私は餌をやり続け、出目金の尾びれは日に日に小さくなっていった。

「金魚って共食いするらしいよ」

 そう言った夫の目の前で、ひと回りもふた回りも大きくなった赤い金魚が黒い出目金を追いかけていた。

「もっと大きい水槽にした方がいいのかな」

「でも三匹しかいないし、買い足すつもりもないからなぁ」

 真夏のある日、起きたら出目金が消えていた。ゆらゆらと二匹の赤い金魚が泳ぐその水槽の、水草もどきのプラスチックの陰に、かすかに元の姿を想像できる、透明な骨のようなものが沈んでいた。その骨もいつしかどこかへ見えなくなった。

 朝起きて、洗濯をして、食事の支度をして二人分の弁当を詰める。二匹の金魚に餌をやり、九時から三時のパートを終えて、更衣室で世間話をして職場を後にする。買い物をして、干してある洗濯ものを片付けて、軽く掃除。夕飯の支度をして、お風呂を沸かして、金魚の餌。

 悠々と泳ぐ金魚は、金魚を食べた金魚。憎々しさをおぼえながら、それでも毎日毎日餌をやり続ける。夕暮れ空のような朱色は時おり光を反射して金色に輝く。そうして世界を、ちっぽけなプラスチックの水槽を我が物顔で占拠する。

 眠る間際、水音に混じってゴンと鈍い音がした。跳ねた金魚がプラスチックの蓋にぶつかったようだ。小さな世界に閉じ込められて、そこから脱出しても死ぬだけなのに。ゴン、とまた聞こえた。その世界で満足していれば餌にも困らないのに、外に出たいなんて強欲だ。

「子ども、できなかったね」

 私の声は電気の消えた寝室の闇に吸い込まれた。隣の夫は何も言わないまま、寝返りをうってこちらに顔を向けた。布団の中で、夫の手が私の腕をさすった。

「不満はないのに、変わらない毎日がどんどん不安になってく。このまま老いて朽ちて、小さな世界しか知らないままで。自分がちっぽけな金魚のフンみたいな気がしてくる」

 二匹の金魚はいずれ一匹になる。一匹になっても悠々と泳いでいられるだろうか。もがいて、跳ねて、死ぬ前に外の世界へ脱出。

「そんなことないよ」と言って夫は目を閉じ、しばらくして寝息が聞こえてきた。不安の正体を探すように、暗闇のなかで目を凝らした。ゴン、という音とともに赤色の光が弾け、私は空を突き破って世界から脱出した。死ぬかと思ったけれど、目覚めると隣では夫が寝ていた。スマートフォンのアラームを止める。

 カーテンの隙間から朝日が射し込み、水槽の中でキラリとその光が反射した。パシャリ、ゴン。

 変わらない一日が始まる。洗濯、朝食、餌やり。パート、雑談、買い物。ショッピングモールで赤色の服に目がとまり、衝動的にレジまで持っていった。赤というより金魚色の、肌触りのいいリネンのワンピース。

 不安に食われるまえに、先に不安を食らってやる。

 ホームセンターでひと回り大きい水槽を買った。小さくなった水槽で傷ついた二匹の金魚。剥がれた鱗は水に沈んだのかフンになったのか知らないけれど、私は他の金魚を食らったあんたたちを食らう気はない。

『たまには外で食べよう』

 メールを送った。買ったばかりのワンピースに袖を通し、夫からの返事を待たず家を出た。背後でパシャリと水が跳ねた気がした。

―― end


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