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短編小説/夜間飛行

夜間飛行

 両親も兄夫婦も寝静まった頃。わたしはそっと部屋を出て、小学四年生になる甥が勉強部屋に使っている一階の和室へ向かった。勉強部屋といっても学習デスクが置いてあるばかりで、実際に宿題をするのはいつもリビングだ。今はそのどちらの部屋もひっそりと静まっていた。

 電気もつけずに窓から差し込む明かりだけをたよりに、襖に手をかけた。スッと音もなくそれは開き、障子の向こうからはうっすらと月の光が透けている。学習デスクの横に立って障子を開け、窓越しに空を仰いだ。

 膝を抱えてしゃがみ込むとまるで外にいるようで、住宅地であるこのあたりはさほど高い建物もなく、向かいの家の屋根が空との境界線になっていた。

 ただじっと座り込んで星をながめた。

 夕飯のあとに甥のランドセルを持って入ったこの部屋で、灯りをつけることも面倒で、誰が閉め忘れたのかは分からないけれど障子が開けっ放しになっていた。そして、この家に十年近く住んでいるというのに、この場所にこんな景色があったことを初めて知った。そのときはまだ月が視界の右上のあたりにあったけれど、半分ほど欠けたその月の姿はもう見えなくなっていた。

 こんなとき、あの人なら星々を指さして(それは決して正確な位置を教えてくれはしないけれど)、漆黒のキャンバスに描かれた神話を、彼なりのツッコミを交えて教えてくれるのかもしれない。わたしはただ彼の柔らかく棘のないその声に、ぼんやりと夜を漂っていた。宙に浮かんでいるようで、草の匂いと、風の温度と、ときおり感じる虫の気配で地上に留まっていた。

 チカチカと瞬く星を横切って、点滅するランプが空をすすんでいく。ひとつは左の空を、もうひとつは右の空を、そしてその中間あたりをもうひとつの飛行機が飛んでいた。

 車の音がし、光が夜を霞ませる。唐突に現実に引き戻され、気を削がれて立ち上がった。学習デスクには子どもに人気のアニメキャラクターのフィギュアが3体並んでいた。「夜になったら動くのよ」というわたしの言葉を信じてくれたのは、もう数年前のことだ。そのわりに夜一人でトイレにいくのを怖がるのは相変わらずだけれど。

 甥の成長を近くで見つめながら、ふとした拍子に頭をかすめるのは彼のことだった。兄が結婚した年、わたしは彼と別れた。翌年には甥が生まれたけれど、噂によると彼とその奥さんのあいだに子どもが生まれたのはそれよりも少し早かったようだ。

 結婚願望はいまだになく、子どもが欲しいと思ったこともない。甥と一緒に暮らしていると話すと「子どもほしくなるでしょ」と友人に同意を求められることがあるけれど、わたしが「甥で満足してる」と答えると「有亜らしいね」と返ってきた。

 ふたりで出かけたとき、彼は通りすがりの子どもに優しげな目を向けていたし、数人の友人とその家族と一緒にバーベキューをしたときには子どもたちに混じってはしゃぎまわっていた。その姿をながめながらビールを傾け、「彼にはきっと父性が溢れてるんだ」と友人に言うと、「ただのガキじゃないの? でもいいお父さんになるわよ、きっと」と笑っていた。わたしは自分がいいお母さんにはなれないような気がして、「ガキかぁ」と、その友人と笑い声を重ねたけれど、彼のそういった姿を見るたびに、自分が彼に相応しくないのではないかと考え続けていた。

「子どもができたら結婚すればいいよ」

 そう言う彼に頑なに避妊を求めたのはわたしで、バーベキューのときに「いいお父さんになるわよ」と笑っていた彼女が彼の子どもを妊娠したと知ったとき、頭に浮かんだのは「仕方ない」という言葉だった。



 甘えるように抱きついてくる甥をかわいいと思いながらもそれは母性ではなかった。大人の目を盗むようにゲームに興じる甥を叱責する義姉の姿に感じるものこそが母性だった。

 甥はあっという間に大きくなってゆく。女としての機能を果たすならそろそろ限界が近づいていると思いながら、結婚へも子どもへも「願望」がなく、それなのにわたしの自室にはいくつかの結婚式場のパンフレットがあった。

「四十になるし、そろそろ」

 四十になるのはわたしではなく恋人だった。十年前、「三十になるから、そろそろ」と彼に言われたとしても、わたしがそれを受け入れることはなかったはずだ。少しずつ居場所が狭まっていく今の家から逃げ出すように、わたしは結婚を受け入れたのかもしれない。

 ――では彼は? 

 彼の居場所を作ってあげられなかったわたしから逃げ出すように、今の奥さんを受け入れたのだろうか。単にわたしに愛想を尽かしただけなのかもしれない。

 ふいに廊下に電気がつき、開け放していた襖からさしこんだ光が、部屋のなかをぼんやりと照らした。トントンと階段を下りてくる足音がし、ひょこりと顔を出したのは義姉だった。

「あれ、有亜ちゃん。こんなところで何してるの?」

 星がきれいだったから、というと義姉は窓をのぞきこみ「ほんとだ」とわたしに笑顔を向けた。襖をしめて部屋をまっ暗にすると「すごいねえ」と興奮気味に窓に顔をはりつける。
 兄よりも七歳年上で、わたしと九歳年の離れた義姉は、五十も間近だというのに昔と変わらず屈託ない笑顔で、わたしはときにそれに救われ、ときに疎ましくも感じていた。義姉が甥をその体に宿したのは、ちょうど今のわたしと同じ年だった。

「おめでとね」

 ぽつりとつぶやく声が耳に届いた。

「有亜ちゃんがこの家からいなくなると思うと寂しいけど、同じ市内なんだし、顔出してね」

 義姉はおととしに実母を亡くし、あとを追うようにその父親も他界していた。彼女の生まれた家はもぬけの殻で、さんざん悩んだ挙句に売りに出したのはつい最近のことだ。
 他人だったこの人が家族になったのはいつだろう。「願望」なんかなくてもわたしにはいつのまにか「姉」がいて、今のわたしにはその生活が当たり前になっていた。姉にとって、わたしは家族でいられたのだろうか。

「あっ、トイレ行きたかったんだ」

 姉は思い出したように「おやすみ」と部屋を出た。急いでいるのにぴっしりと襖を閉め、先ほどより闇を濃く感じたけれど、それはどこか温かな闇だった。
 空を仰ぐとまたランプがひとつ星のあいまを過ぎっていった。
 流れ星を探してしまうのは彼の名残なのかもしれない。けれど、願うことのないわたしには飛行機のランプで十分だった。


end

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