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掌編/貪欲な芳香

 フォン・ド・ヴォーと赤ワインの濃縮した香りというのは、どうしてこうも食欲をそそるのだろう。「赤もらおうかな」とキタムラの背に声をかける。「まいど」とフランス料理屋らしからぬ返事が返ってきた。カウンターの端に立ってシルバーを磨いていたアイナちゃんの手元でカチャリとフォークが音をたてる。

「何にしますかぁ?」

 甘ったるい声が学生アルバイトらしい。「なんでもいいよ、なぁ?」とキタムラに問われてうなずいた。火にかかったフライパンに彼はポイと何かを入れる。

「何入れたの?」「ローズマリー」

 答えた彼はオーブンを開けてフライパンごとその中に入れた。アイナちゃんがワイングラスを置く。「これでいいですよね」と彼女がエチケットを見せたのは私ではなくキタムラだった。

 カウンターに座る私にはキッチンの作業台が見えない。キタムラはそこに置かれていたらしいグラスをひょいと持ち上げた。ローズマリーの枝が数本と、底に3センチほど水が入っている。一本抜いて手渡された。私はそれを受け取り匂いを嗅ぐ。

「ローズマリーの匂い好き。眠る前にゼラニウムのアロマオイル2滴とローズマリー1滴をティッシュに垂らして枕元に置いたりする」

「そりゃまた、女の子らしい。前の花壇に生え放題になってるからそこのトイレにもローズマリーが置いてある」

「フツーのお客さんには言わないほうがいいよ」

「トイレに行けば分かる。うちはそういう店だ」

 アイナちゃんが「キャハハ」と声に出して笑った。いつのまにかグラスにはワインが注がれている。白2杯ですでに頬は熱くなっていた。キタムラが私の前にサラダの皿をおいた。ベビーリーフの上に散らしてあるのはガーリックチップ。この店のドレッシングはキタムラの味がする。

「肉まであと5分」

 グラスに口をつけると、キタムラが私の前に置かれたもうひとつのグラスを手にとった。透明な液体は水。レモンの切れ端とミントの葉が浮いた彼のグラス。

「アイナちゃんも何か飲んだらいいよ」

 ありがとうございまーすと間延びした声。アイナちゃんはキッチンに入り、自ら注いだアイスティーを飲んだ。私の前には肉が出てくる。

「牛頬肉赤ワイン煮。肉食女子スペシャル」

 女子一人。フルコースの終盤にも関わらず胃は貪欲だ。

「肉でエネルギーチャージしないとね」

「おお怖」とキタムラがおどけた調子で肩をすくめた。貪欲なのは胃だけじゃない。肉をほおばると自然笑みがこぼれる。キタムラの口元もほころんでいた。

end



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