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掌編/ある日、森のなか

 遠く、近くから囀りが聞こえ、梢を渡る羽音が右から、左から。ガサガサと草むらを荒らした何者かが背後を過ぎり、すべてが静まると水音が辛うじて耳に届く。天を仰げば空は一面枝葉に覆われ、その合間からぽつりぽつりと漏れ入ってくる陽光は煌めく星のよう。森に入り口というものがあるとすれば、それはどこだったのか。


 その日、お嬢は町外れにある神社へと一人向かっていたのでした。縁結びに大層ご利益があるという鄙びた神社。お嬢の友人の兄の同僚の、その従兄弟の借家の家主の祖母にあたる方が思いもよらぬご縁をいただいたとかなんとか。縁結びと言っても、まだ出会っていない者同士を繋ぎ合わせるのか、すでに顔見知りの者同士を結びつかせるのか、縁といえど色々。


 木立に囲われた道は舗装されていたけれど、左右から侵食するように雑草が生え、樹の幹は苔むし、シダが覆い、じきに道の舗装は途切れて土が泥濘み、その湿気た場所を通り抜けた先にぽかりとひらけた原っぱがあった。青い空から陽が降り注ぎ、道はほとんど原っぱと同化し、色とりどりの花が咲き乱れている。左手はなだらかな斜面となり、麓の町が小さく見え、ずいぶん高い所まで来たものだと息をついた矢先、赤い鳥居が目に飛び込んできた。


 お嬢が”その者”と出くわしたのは童話の挿し絵にもなりそうな長閑な場所でありました。お嬢の手にしたスマートフォンは圏外。Googleマップがさほどあてにならないというのはお嬢も身をもって感じたようですから、このときお嬢がスマートフォンの画面を見たのは時間を確認するためだったようです。午後四時を少し回った頃だったとか。お嬢が向かっていたはずの神社は遥か眼下。赤く小さな鳥居に向かってお嬢は手を合わせたそうです。


「逃げないのかい?」不意にかけられた声に虚を突かれ、合わせた両手もそのままに振り返ると、キョトンとした顔つきで私を見る者がある。彼は皮肉めいて口の片端を上げ、もう一度「逃げないのか?」と、それは問いではなく、明らかに私の挙動を愉しんでいる。つぶらな瞳は真っ直ぐに私を射抜き、品定めするように鼻を鳴らし、準備万端という様子で左右に体を揺らした。「逃げるんじゃないわ、帰るの」と、私はそのまま駆け出した。


 お嬢はおつむの方は今ひとつでしたが、野山を駆けさせたならその右に出るものはおりません。泥濘んだ土も、苔むした岩もなんのその、行く手を阻むように生い茂る数多の植物を薙ぎ払い、ときに両の手も使って獣のように来た道を駆け戻り、じきに舗装されたアスファルトの道に出るとあとは一目散。お嬢は自分の足音と呼吸と、お嬢に驚いて飛び立つ鳥の羽音、獣の鳴き声を聞きながら、ぴたりとついて来る”その者”の足音がこの追いかけっこを楽しんでいるのだと感じておりました。


「お嬢さん、ちょっと待ちなさい」と笑いを含んだ声がするけれど、足を止めるわけにはいかず、私は無視を決め込んだが、「待て待て」とからかうような口調はそのうち懇願するようにも聞こえてきて、じきに息が切れ、足がもつれ、私は地面にへたりこんだ。


 そのときお嬢が考えていたのは僕のことだったと言います。縁結びの神に願おうとしていたのは僕との縁。身近に暮らせどお嬢と僕とでは家柄も立場も釣り合うものではありませんから、僕のほうはただ心の内にお嬢を想うだけで十分でしたし、まさかお嬢がそれほど思い詰めているとは夢にも思いませんでした。


「これ、お嬢さんのじゃないのかい?」彼は指先に白い小さな貝殻のついたイヤリングをつまみ、私の目の前で揺らして見せる。耳たぶに手をやると右耳には着いているけれど左にあるはずのものがなかった。「私の」と慌てて手を出すと彼はその手を強く引いて私の体を起こし、そのままひょいと担ぎ上げ、気づけば私は彼の広い背に背負われている。肩の上から回した私の手に、「大事なものなのだろう?」とイヤリングを握らせた。


 貝殻のイヤリングは僕がお嬢にプレゼントしたものでした。もちろん高価なものではありませんし、むしろ売り物にもならない、僕が自らの手で貝に穴をあけ、金具をつけて拵えたものです。二人で海岸を歩いたとき、お嬢が戯れに拾った貝殻でした。浅く日焼けしたお嬢の肌には白いイヤリングが映えるように思ったのです。


 暗くなるから麓まで送るという彼の広い背で、私はゆらゆらと揺られながら歌を歌った。彼は私の歌にあわせてハミングし、スキップのような軽やかな足どりで森を駆けていく。心地よいリズムとぬくもりに、私はいつの間にかうとうとと眠ってしまっていた。



「お嬢。お嬢」

 定一が珠子を揺り起こすと、彼女はぼんやりと瞼を持ち上げ、じっと定一の顔を見つめた。

「定一?」

「こんなところで寝てると風邪をひきますよ」

「ここは?」

「何言ってるんですか、LINEで呼び出したのはお嬢でしょう。熊乃神社。お嬢、こんな寂れた神社で何してたんですか」

 珠子がふいと顔をあげると賽銭箱、その奥に小さな社があり、振り返ると鳥居の向こうに茜色の空が広がっていた。

「お嬢。日が暮れてしまうから帰りましょう。自転車で来たので後ろに乗って下さい」

 ふと定一の視線が珠子の右耳にとまり、チラと反対の耳たぶも見やった。珠子ははたと気づき、握りしめていた右手を広げる。

「とれちゃったの。定一、つけてくれる?」

 定一はぎこちない手つきで珠子の左耳に小さなイヤリングをつけ、二人は社の前に並んで手を合わせた。境内には狛犬ではなく左右に二体の熊が置かれていた。

「お嬢、何を祈ったんですか?」

 定一の問いかけに珠子は無邪気な笑みを浮かべ、そうして前後に体を合わせた自転車での帰り道、森でのできごとを語って聞かせたのだった。

(おしまい)

幼い頃から慣れ親しんだ童謡『森の熊さん』。お嬢さんはどうして一人で森に入ったのか想像してみました。



  

 

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