見出し画像

ネガの『つづき』を記せるという強み

noteは記事のひとつひとつを気づきとか知識とかコンテンツとしてしっかり書いてるひとがおおくてすごいなぁと思いながら、よそはよそウチはウチとばかりにきようも飯のはなしをするわけですね。

(写真はお弁当用に一口サイズに巻いて冷ましたそらまめと豚肉と焼きそば)

(そらまめが春の名残とばかりにお安くなってるとつい手を出しちゃうんですよねぇ)


長らくTwitterで発信をしてきて、140文字で一旦文章を切ってリズミカルに繋げていくことに特化していったので、noteでむげんのもじすうを与えられてまだ乗りこなせていないところではありますが。それでもツイートするときとの意識の違いというのはひとつ大きなものがあって、それが『あと一歩踏み込める』ということ。

ツイートってミュートされていない限りは送信すると即時フォロワーさんのタイムラインの構成要素になって、みちみちにつめても140文字、正直ぱっと目にしただけでも単語くらいは拾えてしまうよね。だからできる限りネガティブなことは書かない。【閲覧注意】ってタグをつけたところで同じツイートのなかならその文字と同時に認識されてしまう単語は決して少なくないとおもう。そしてそれをひとの防御力不足とだけ言い切るのは乱暴だなともおもう。もちろん『嫌なら見ない』は大前提ではある。(どうしても拾いたくない話題があるならワードミュートとかあぶなそうな人をフォローしないとか自衛策はちらちらあるけれど)

ただ自分自身もけっこうツイートを見返したりするので、一時の負の感情に任せて書きなぐったものはあとから見直すと単純にたのしくない。続くツイートでのセルフフォローが下手なせいもたぶんある。もっと、こう、たのしいことのログをガンガン残していきたい。

一方でnoteは更新してもタイトルなりタグなりを辿って記事を開いた人しか読めない。文章を読もうと言う明確な意思をもって訪れたひとにはやはりネガティブなだけの文章を読んでもらうのは申し訳ないし、なにか気に入ったものがあればこころのお土産にしてほしい。まあいまのところ『日記』タグを辿って多少とっちらかった個人のはなしと、寒天のよさみを求めてきたひとくらいだろうけど。(寒天のよさはまったく語り足りていないのでそれはそれで改めて語る場を設けたい)

じゃあ結局はどちらも一緒みたいなんだけど説明が苦手で申し訳ない。イメージとしてツイートは目から脳に直接一度取り込まれてしまうけど、noteはとりあえず文末か読者がページを閉じるまで執行猶予がある。

だから仮にネガティブな感情について記すことがあっても、そこからなにを得たのか、どう転換するのか、あるいはどう呑み込んで鎮めるのか、一歩踏み込んで話ができる。というか、それをしないと勿体ないかなという気すらしている。

ただ昨日もすこし試みて難しかったように、その踏み込んで言語化するというのがひとすじなわではいかない。ふわふわと無難の川でキュウリを冷やしてぽりぽりする暮らしのような無害であろうという心意気に慣れすぎたせいなのか。あるいは中高生の頃にインターネットではっちゃけた反動でつとめて『強すぎる個の主張は出さないでいこう』という姿勢でからだが固まってしまっているのか。

まずはストレッチをするところからはじめないと。